« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »

2008年11月

2008年11月30日 (日)

ずっとアニメが好きだった(9)

〜宝島〜

Photo

僕が今もなお愛してやまない作品「宝島」。放送開始は「さらば宇宙戦艦ヤマト」が公開されたのと同じ年、1978年の10月から。説明するまでもない、出﨑統・杉野昭夫の名コンビの手による名作中の名作だ。当時中2だった僕は夏に観た「さらばヤマト」の興奮冷めやらぬ状態で、この秋放送開始のアニメでもやはり「ヤマト2」と「999」ばかりに目がいき宝島はノーマークに等しかった(出﨑統も杉野昭夫もまだ知らなかったのである)。しかしある日の番宣スポットCMを目にしたことで興味を持ち、途中から観始めてあっという間にのめり込んでいった。わずか15秒のスポットCMですらその魅力は伝わってくるほどであったのだ。

そして、宝島はおそらく僕が最も大量の涙を流した作品でもある。途中から観たのにも関わらず、である。今も観る度に必ず同じシーンで、30年前と同じかあるいはそれ以上の涙を流してしまう。ほとんどが25話と最終回のシーンなのだが、今の方が少しはオトナで(当たり前か)、あの頃よりも少しは人生を知ったからこそ余計に泣けるのだろう。
僕はシルバーやグレーに憧れ、いつかはあんなカッコイイ男になりたいと思ったものだった。だけど、なりたいと思うだけでなろうとしたわけではなかった。いつもいつも楽な方に流され、戦うことを避け続けてきた。そしてつまらないオトナになった。

*************************

「シルバーにとって一番大切なものはなに?」

宝島からの帰途、海賊の親玉シルバーは囚われの身となり船倉に閉じこめられていた。シルバーに憧れ、信頼し、裏切られ、なのに憎みきれないでいるジム。彼はおとなしく捕まったままでいるシルバーに失望していた。
そんなシルバーにジムはコーヒーを差し入れ、シルバーにどうしても答えて欲しいことがあると、上のような質問をしたのだ。
シルバーは答えた。

「今はこの一杯のコーヒーさ」

「まじめに答えてよ」と怒るジム。
そのジムに対しシルバーは「まじめさジム・・・今日という日のこの瞬間はお前の入れてくれた一杯のコーヒーだよ・・・しかし明日になりゃ変わっちまうだろうな」と言い、そして続ける。

「俺にとって一番大切なものってのが俺自身まだわかんねぇんだ。それを探すためにこうして毎日を過ごしてる。フリントの宝探しに血道を上げたこの10年は楽しかった宝を見つけりゃ、その『何か』が分かるような気がしていた。けど、宝は宝以外のなにものでもなかった。俺の『何か』ではなかった」

そして遠くを見つめるようにつぶやく。

「あるよなぁ、ジム。どっかで俺が、俺の一番大切なものってやつに出会える時があるよなぁ・・・そうでなけりゃ、あんまりさみしすぎらぁ」

(第25話 「潮風よ、縁があったらまた逢おう」)
*************************

僕はもういい歳をしたオヤジだ。宝の地図だの海賊の財宝だのを信じるには歳を取りすぎたし、オートロックのマンションじゃビリー・ボーンズ(主人公ジムに宝島の地図を与えた男)も尋ねて来やしない。ポストに入っているのは宝の地図どころか、クレジットの請求かゴミ箱へ直行するチラシくらいのもの。そして明日もまた同じ道をたどり仕事に行き、疲れて帰ってくるだけだ。

「お前の大切なものは見つかったのか?」
シルバーの大きな瞳が僕に問いかける。

「ムリだよシルバー、あんたですら簡単には見つからなかったんだろ?」
僕は答える。

けれど僕もきっといつか自分の、自分にとっての一番大切なものに出会える日が来るんだと信じて生きている。ちっぽけな冒険すらない狭い国に閉じこもったままの人生だけれど、シルバーやグレーのようなカッコイイ男には程遠いけれど・・・。

「そうでなけりゃぁ、あんまりさみしずぎらぁ」

眠れぬ夜に僕はふとつぶやいてみた。
やっぱ僕じゃカッコつかないよ、シルバー・・・。


Ra

←ロマンアルバム。杉野氏の絵を同じ記事に掲載するとはイイ度胸だな、俺。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2008年11月22日 (土)

ずっとアニメが好きだった(8)

〜さらば宇宙戦艦ヤマト公開〜

Photo

↑当時の新聞広告

アニメージュ創刊と同じ1978年の夏、8月5日に全アニメファン待望の、宇宙戦艦ヤマトの続編にして完結編(になるはずだった)「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」が公開される。
“全アニメファン待望の”という表現は決して大げさではない。テレビ第1シリーズとその再編集による映画版の人気がアニメブームを巻き起こしていた。テレビではすでにアニメファンを意識した作品も多く放送されるようになっていた。けれども、アニメの面白さを(オタク的に)知ったばかりの僕や当時のアニメファンは「もっと多くの作品を観たい、もっとレベルの高い作品を観たい」という欲求がものすごく強かったのだと思う。ブームの熱に浮かされていたとも言えるのだろうけれど、それはとても心地いい熱だったのだ。
そんな時代だからこそ、ヤマトの続編は本当に誰もが待ちこがれた本命中の本命と言えた。それもオリジナルの劇場版新作となれば燃えないはずがなかった。

宇宙戦艦ヤマトのロマンアルバムに掲載された、映画第1作が公開されたときのファンが徹夜する様子に憧れたことは以前に書いた(ずっとアニメが好きだった(3)参照)。今度こそは徹夜行列に加わりたいと思ったものの、中学生の僕に親がそんなことを許すはずもなかった。涙をのんで公開初日の朝、始発のバスで僕は友人と2人映画館へ向かったのだった。当時、僕の実家から大阪の都心まではバスと電車を乗り継ぎ1時間半近くかかっていた。「もう映画館は一杯ちゃうやろか・・・」気ばかり焦るも、自分たちではどうしようもなく京阪淀屋橋駅を降りるやいなや御堂筋を北へ猛ダッシュで(野球部にいた僕らは体力だけはあったのだ)今は無き梅田の東映会館へ向かった。
映画館の前はすでに大行列だった。とにかく一刻も早く並ぼうと最後尾を目指すが、映画館の前の歩道から始まった列は角を曲がり映画館の裏手まで続いていた。ようやく列に並んだ僕らは立ち見を覚悟していたが、ヤマトの続編を見たいという気持ちが強く立ち見くらいのことはどうでもいいと思えたほどだった。
ようやく館内に入ったものの案の定劇場内はごった返しだった。とても座れそうにないと思いつつも2人で手分けして空いている席を探し回った。するとなんと奇跡的にぽっかりと2席並んで空いているではないか。しかも中段まん中から少し奥に入っただけの良い席だ。僕は持っていた鞄を放り投げて席を確保した(野球部なのでコントロールには自信があったのだ)。こんなに大勢の人が席を探しているのにそこだけ誰も気づかなかったなんてスゴイ。ヤマト愛の強い僕へのご褒美ではないかと思ったくらいだ。

並んで席を確保した僕らの気分が上々なのは言うまでもなく、あとは映画がはじまるのを待つばかりだった。
そしてついに待望の、本当に心から待ちこがれた「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」が始まった。もう気分はMAXハイ状態だった。前作で古代守を演じた故広川太一郎氏のナレーションで始まり、荘厳なパイプオルガンの曲をバックに繰り広げられる彗星帝国の脅威・・・そしてタイトルが出た瞬間、すでに僕の目は潤んでいた。そこにあのスキャットがかぶる。「ああ、ヤマトだ・・・これは間違いなくヤマトなんだ・・・」そんな思いで一杯になり涙が溢れそうだった。

それから後の事を書き始めると全ストーリーを紹介するハメになるのでやめておこう。
ヤマトの発進シーンで息をのんだり、デスラー登場シーンでどよめいたり、真田が死ぬ場面ですすり泣いたりしながら、皆がヤマトの世界にどっぷり浸りきっていた。クライマックスでは全ての人が泣いていたのではと思えるほどだった。
映画が終わるまでの2時間半はそれまでに感じたことのない幸福な時間だった。いや、それ以後もこれほどの幸福感はなかったように思う。それほどに劇場全体が一体感を持っていた。
それは公開初日の第1回目の上映だったからだと今でも思う。そこへ駆けつけるような人は間違いなく全てがヤマトファンであり、アニメファンだったはずだからだ。皆が皆、この瞬間を待ち望んでいた。誰よりも早く、少しでも早くヤマトに逢いたい。そんな多くの思いがもたらした時間だったのだと思う。
エンディングのジュリーの歌が終わった後、劇場は拍手に包まれた。誰からともなく自然と拍手がわき起こった。皆がこの映画に満足していた。
そしてヤマトとの別れを惜しんでいるかのようだった。

・・・そう、これが本当にヤマトとの別れであった方がどれほど良かったか。そうであればその後の僕らがヤマトに対してこれほど複雑な思いを抱かなくて済んだのにと今でも悔しい。
けれども、やはり「さらばヤマト」は永遠だ。30年前の夏、あの日あの時の胸の熱さは今でもはっきりと思い出せる。1978年8月5日「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」公開初日の第1回上映。その瞬間にしか味わえない感動を僕らは味わえた。そのことだけは真実だ。

そして僕の大好きなヤマトはあの時宇宙に散ったのだ。

Photo_3

Photo_2


映画パンフと前売り入場券

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2008年11月16日 (日)

Gキャラ×Post It vol.2  〜ザビ家の人々〜

Post It に描いたGキャラシリーズ。
今回はジオン公国を牛耳るザビ家の人々。

Photo

まずはパパ。
美形揃い(ドズル除く)の子どもたちの父には見えない・・・。

Photo_2

長男。別名「ヒトラーの尻尾」。確かに演説上手。


Photo_3

長女。兄が大嫌い。一番似てるんだけどね(同族嫌悪ってやつ)。


Photo_4

三男。顔はこんなだけど、一番まとも。弟大好き。

Photo_5

最後は四男。坊や、良くも悪くも、ね。


おや、ドズルは次男でガルマが三男では?とお思いになった方もいらっしゃるかと思う。
アニメのガンダムしか見ていない方はご存じないだろう。ドズルの上に、実は「サスロ」という兄がいて1年戦争より以前に暗殺されている。これは「機動戦士ガンダム公式百科事典」にも記述があるし、「THE ORIGIN」の「シャア&セイラ編」に登場し、車が爆破され暗殺されるシーンも描かれている。THE ORIGINを見る限り、見た目は父デギンの血を一番引いているようである。ドズルを少し賢くしたイメージか。ちなみにドズルの顔の傷は、兄サスロが暗殺されたときの車に同乗していたときに負ったものである。

「THE ORIGIN」の、アニメでは描かれなかったオリジナルストーリー「シャア&セイラ編」「開戦編」は本当にお勧め。もちろん「THE ORIGIN」自体超お勧めなのだが、アニメ世界を補完する意味でもこのオリジナル部分は本当に素晴らしいと思う。ガンダムの世界を知り尽くした安彦氏だから描ける、そしてコミック作家として築き上げてきた手腕が存分に発揮されているのだ。神話世界も含めた歴史ものを数多く題材にしてきた安彦氏らしく、ガンダムの世界を一種の歴史ものとして描いている。各キャラの性格もより深く掘り下げられており、アニメでのキャラたちの行動に対してもこのオリジナル部分によってしっかり裏付けがなされているのがスゴイ。ガンダムファンで未読の方は是非一読を勧めたい。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年11月12日 (水)

追憶の日本シリーズ、そして訣別

今年の日本シリーズは西武の優勝で幕を下ろした。ほんの少しのアヤで勝負の行方は変わっていたであろう、久しぶりに緊迫感がある面白いシリーズだった。

今年のシリーズを見ていて何度となく1983年の日本シリーズを思い出していた。カードは今年と同じ巨人対西武。7試合中、3試合がサヨナラゲームという史上稀に見るシリーズだった。
巨人は1981年に日本一になっており、西武は前年の1982年に中日を破り「西武ライオンズ」としては初めて日本一になっていた。言わば脂ののりきった2チームの対戦である。
巨人の監督は藤田元司。助監督に王貞治、ヘッドコーチに牧野茂といういわゆる「トロイカ体制」だった。主力選手は江川卓、西本聖、原辰徳、中畑清、篠塚利夫、松本匡、レジー・スミスといった面々。駒田、吉村、槇原の「50番トリオ」の台頭もこの年だ。対する西武は監督が広岡達朗。宿願である打倒巨人に燃えていた。ヘッドコーチに森昌彦、主力選手は東尾修、松沼兄弟、田淵幸一、太田卓司、山崎裕之、テリー、金森といった面々だ。親会社が西武となってから5年、後の常勝軍団へと変貌をとげつつあった。後の黄金時代を支える秋山と伊東はプロ3年目で、まだレギュラーではなく工藤は2年目、清原はこの年の夏に甲子園デビューを果たしたばかりだった。

僕は大学1年生、東京へ出てきて半年が過ぎていた。

当時の僕は巨人ファンであり、特に西本投手の大ファンだった。江川と共に巨人の先発を支えていたが、エースと言えば江川だった。だけども僕は江川は入団時のいきさつもあり、どうしても好きになれなかった。僕は生え抜きでドラフト外からはい上がってきた西本の方を応援していた。西本のピッチングは小気味よい真っ向勝負で、しかも大事な試合に強かった。開幕戦でもよく勝っていたし(西本が開幕戦で勝った年、巨人は必ず優勝している)、81年の日本シリーズでもMVPに輝いている。

このシリーズはそれでもチーム最多の16勝を挙げた江川が第1戦に先発した。しかし江川はノックアウトされ巨人は負けた。西本は2戦目に先発し、完封勝利。81年の第5戦に続きシリーズ2試合連続で完封したことになる。江川は第4戦に先発するも、またも打ち込まれ巨人は星を落とす。そして西本は第5戦に先発し、西武を2点に抑えまたも勝ち投手になる。西本は4回、田淵にホームランを打たれるまでシリーズ29回連続無失点という日本記録(現在も破られてはいない)を打ち立てていた。
西本はさらに1日おいた第6戦、3対2とリードした9回に抑えとして登板したが、ここではリードを守りきれなかった。この試合で同点にされた後の延長10回にマウンドに立ったのは江川だったが、金森にサヨナラヒットを許し勝負は第7戦に持ち込まれた。結局、江川はこのシリーズいいところナシであった。
そして第7戦、先発のマウンドに立ったのは前日もリリーフに立った西本だった。
藤田監督は全てを西本に託したのだ。連投の西本は明らかに疲れが見え、身体は重そうだった。しかし持ち前の粘りで6回まで無失点ピッチング。
巨人が2点リードし迎えた7回、ヒット、四球、自らのエラーで招いた満塁のピンチでテリーに走者一掃のタイムリーを打たれ逆転を許してしまう。西本は遂に力尽きてしまったのだ。
実はこの前、7回表の攻撃で西本はヒットを打ちランナーに出て最後まで塁上にいた。3塁まで進むも自らホームを踏むことはなく、それが後のピッチングに微妙な影響を与えたと僕は思う。デーゲームであったとはいえ日も傾いた西武球場の寒さは想像に難くない(西武球場からそう遠くない東村山市に住んでいた僕はアパートの部屋でコタツにくるまって中継を見ていた)。ウィンドブレーカーを着ていても身体は冷えたことだろう。西本が3塁にいるとき、篠塚がレフト線にきわどいファウルを打った。ファウルが宣告された時の西本の落胆した表情は今も忘れられない。結局篠塚は凡退し、西本は冷え切った身体のままマウンドへ向かったのだった・・・。

7回に逆転した西武は、このシリーズ抑え役の東尾が締めて2年連続の日本一となり、広岡監督は「これでようやく全国区になれた」と語った。一方の藤田監督は「西本は褒められても責められることはない」と大車輪の活躍をした右腕をかばった。
この日は重苦しいムードの試合のように陽の差さない曇天模様だった。西本の熱投が報われなかった僕の心もまさしくこの日の天気のようであったはずだ。
けれども、当時僕は日記にこう記している。

「本当に見事な日本シリーズだった。一生心に残るだろう」

巨人が負けたことは悔しかったが、それ以上に素晴らしいゲームを見ることが出来たという満足感があったのは確かだ。それと敗れたとはいえ西本が素晴らしい活躍をしたことも嬉しかったのだと思う。

翌1984年、満を持して王貞治が監督に就任する。
巨人の前途は明るいものに思えた。しかし、わずか5年で王は監督の座を追われる。時を同じくして西本も中日へ移籍した。
そして僕も少年時代から応援してきた球団に別れを告げたのだった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年11月 9日 (日)

赤いキャンディー、青いキャンディー

♪しっ・てる・かい?

Photo

というわけでメルモを描いてみました。初トライ。
ちょっと年齢上がってしまったかな。もう少し幼い感じだったはずだが、年齢設定は10歳なのでまあこれでも良いか(なぜか投げやり)。なんにせよ手塚キャラは難しい・・・特に女性キャラの独特の色気を出すのはどう頑張ってみてもムリだ。

メルモといえば、メルモの声優、武藤礼子さんが亡くなったのはちょうど1年ほど前だったっけ・・・。

今年は手塚治虫生誕80年に当たる。
今月の3日がその80年めの誕生日だった。
僕は4日に東京・渋谷で「手塚治虫の遺伝子 闇の中の光展」というのを見てきた。気鋭のアーティストが手塚作品をモチーフにした作品を作るというもので、作品は画集になって一般書店でも発売されているので興味がある人は手にとってみると良い。展示そのものはこぢんまりとしていて、正直物足りない気がした。ただ、手塚作品というのは色々なアプローチが可能な懐の深さを持っているということを改めて感じることが出来た。
ま、そんなわけで軽く触発されてメルモを描いてみたわけだ。
コンセプトもなんもないただのイラストでしかないところが気鋭のアーティストたちと凡人の僕との違いだけど(爆)。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2008年11月 3日 (月)

文化の日のなんやかんや(・・・ってほどでもない)

文化の日におおよそ文化的とは言えない一日を過ごした。
まあ、今までも文化的な生活などしたことなどないので、だから別にそれがいつも通りと言えばいつも通りだ。

今日はちょびっとだけ部屋の掃除をした。
普段はあまり手を出さないところも、今日は掃除をした。「中」掃除くらいか。
その最中、もらいもののお茶など頂いたことすら忘れている食品がけっこう多いことに気づく。当然ほとんどが賞味期限切れである。捨てるに忍びないが捨てざるを得ない・・・母がずっとずっと前に送ってきた筍の瓶詰めもあった。なんだか、ものすごく後ろめたい気になる・・・ごめんなオカン。
まだ箱すら開けていないジャムとマーマレードの詰め合わせもあった。幸い賞味期限まではまだひと月ある。けれど、誰に頂いたのかすら思い出せない僕は、ひどく薄情な人間なんだと思うとひどく落ち込んでしまった。

早めの晩ご飯を食べて19時過ぎにザッピングしていたら、俳優の長門裕行夫妻のドキュメントを放送していた。妻である女優の南田洋子さんが認知症になり、それを介護する様子が流れていた。
南田さんは、まだ何もかも分からなくなってしまうというほどの状態ではないものの明らかにその症状は進んでいた。本当に綺麗な女優さんだっただけにその姿はかなりショッキングであった。老い、認知症、介護・・・ついこの前まで自分には関係ないような気がしていたこれらのことが急速に現実味を帯びた気がした。

長門さんのドキュメントの後、NHKをつけると「わが心の大阪メロディー」という番組をやっていた。この手の番組はNHKでは割とよくやっている。
が、今回はあの「ミス花子」が2曲も歌った(ていうかその2曲しか知らないけど)。「ミス花子」僕くらいの年代の大阪の人なら知ってるだろう。関西弁の中でも最も“汚い”と表される河内弁をフィーチャー(?)した「河内のオッサンの歌」、とにかく大阪が好きやということをいろんな理由をこじつけまくって歌う「好っきゃねん」(“ゃ”が小さいところがミソ)などのヒットがあるれっきとした“フォーク歌手”である。ミス花子がその2曲をNHKの全国放送生中継で歌ったのである。ワシ(ってここだけ“ワシ”かい)は泣いたで、マジで。
僕は大阪では北河内という地方に分類される所の出身だ。だから河内のオッサンの歌で歌われるようなオッサンたちを間近で見てきた。地元に帰ると改めて「汚い言葉やな〜」と思う。けれどその言葉がホンマに愛おしい。今では他所から来た人が増えてそんな言葉も薄まりつつあるが、地元を離れて20数年、時が経つほどに愛しく思える地元の言葉やんけ、ワレ!
同番組では“浪花のモーツァルト”ことキダ・タローもフィーチャーしていた。キダ・タローと言えば、かに道楽はじめCMソングが多く、どうするのかと見ていたら店の名前や商品名のところは「らららら〜」でごまかしていた。歌詞を忘れた歌手かいっ!ええやんか、今さら。キダ・タローを取り上げるならそれぐらい許しなはれや、NHKはん。
それでもまあ、ミス花子が見られただけでも良しとするか。元気そうでよかった。

という、どうみても社会的責任とかそういうものとは無縁の、ある人間の一日。
こういうどうでも良いことをブログネタにして今日も一日が終わるのだ。
いったいどれほどこうして無駄な日々を重ねてきたことだろう。

そして明日、僕はひとつ歳を重ねる。

| | コメント (10) | トラックバック (1)

2008年11月 2日 (日)

ドラフト

ビールではない。
プロ野球新人選手選択会議、いわゆるドラフト会議のことである。今年は4年ぶりに社会人・大学生と高校生を一括した形でのドラフトになった。ドラフト前には複数球団の指名が確実と言われた新日本石油の田澤純一投手が、メジャーへの挑戦を表明し日本の球団に対し自分を指名しないよう要望を出すという異例の事態となったことでも注目された。結局、強行指名もあり得るのではと思われたものの田澤を指名する球団はなく田澤は胸をなで下ろしていた。かつての巨人ならそれでも強行指名していたかもしれないが、いくら“典型的KY球団”とはいえ、さすがにそこまでではなかったようだ。
巨人の清武球団代表は「人の希望は尊重されるべきであり、今年のドラフトには不満が残る」みたいな主旨の発言をしていたようだが、どの口がそんなことを言っているのだろうとあきれ果てた。田澤がメジャーに行きたいと言ったことに対して真っ先に異を唱え、やれメジャーの日本人を全部引き上げさせるだの国交断絶だのと息巻いていたのは誰か。挙げ句、田澤をメジャーに行かせないため、そしてこの先同じようなことを言う選手を出さないためにペナルティーを課そうという動きを率先していたのは誰か。田澤の「希望」を真っ先に潰そうとしたその口が「希望は尊重されるべき」とは・・・開いた口がふさがらない、とはこの事だ。まあ、巨人の本音は「巨人の希望こそが優先されるべき」ということなんだが。それを、いかにも“人権尊重”の立場で発言しているという風に装っているのがまた腹立たしい。

とにもかくにも、これで田澤は心おきなくメジャーへ挑戦できることになった。ただし、成功できるかどうかは未知数であり道は険しいだろう。それでも田澤は楽しみで仕方ないと思う。そして、仮に成功出来なかったとしても彼はなんら後悔することはないはずだ。心ない球界関係者は「ざまあみろ」と思うだろうが、心の赴くままに行動した勇気ある若者は、そんな連中のことは鼻にもかけないに違いない。
願わくば、田澤がメジャーで大活躍し、その後に続こうとする者が出てきて欲しい。そして閉鎖的なこの日本球界をどんどん揺るがして欲しいと思うのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »