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2009年2月

2009年2月27日 (金)

水平線の終わりには・・・

・・・虹の橋は、夢の世界はあったのだろうか?

Photo_5
今回はあえて勇ましいトリトンを描いてみたが・・・。

先日(2月25日)BSアニメ夜話で「海のトリトン」が取り上げられた。
その前の週まで僕はカートゥーンネットワークで何十年かぶりに通しで観たばかりだったのであまりにいいタイミングでの放送にちょっと驚いた。子供のころに観たきり再放送などは飛び飛びで観たのみで断片的な記憶しかなかったが、今回改めて見直す機会を得たことは幸運だった。
「海のトリトン」は放送は1972年に放送された。手塚治虫の同名漫画を原作としているがアニメ版は完全なオリジナルストーリーと言ってよい。総監督は富野喜幸(由悠季)。その後数々のヒット作品を生み出す彼のこれが初のシリーズ監督作品である。
主人公が戦うべき理由を見いだせないまま否応なしに平和な暮らしから投げ出されてしまうことや、ゲストキャラ(恐竜やヘプタボーダら)とのつかの間の心の交流と悲劇的な別れ、そして善と悪の定義にくさびを打ち込んだかのような救いのないラストなど、後の富野作品との関連性も見受けられる作品である。1978年発行の「ファンタジー・アニメアルバム 海のトリトン(少年画報社)」で富野監督はこの作品について実に興味深いことを語っている(アニメ夜話で紹介されたアノくだりではなく)。長くなるので引用は避けるが、それは後の問題作「伝説巨神イデオン」のテーマとも関わる話だったので、今回読み返して驚いた。
僕は本放送で見ていたと思うのだが、オープニングの歌と映像の印象が鮮烈であったことははっきりしているが、内容について当時の記憶が実はあまりない。手塚作品だと信じ込んでいたことやシリアスな作品であったこと、ラストが唐突でなんだかよく分からなかったことがぼんやりと思い出されるくらいである。今回通しで観てもあの最終回はすぐには理解できなかったくらいだから当時小2で、しかも頭の悪い僕に理解出来ようはずもなかったのは至極当然である。
だからこそ、なのだろう。僕よりも上の世代である当時の女子中高生を中心に人気が広がり日本初と言われるテレビアニメのファンクラブが作られた。トリトンと言えばファンクラブ。そんなイメージが僕の中には今でもある。
それは上にも書いた、アニメブームが盛り上がってきた頃に発行された「ファンタジー・アニメアルバム 海のトリトン」や翌年の「ロマンアルバム」にトリトンファンクラブのことが紹介されていたからだ。会員が描いたすごく上手なイラスト(今見返しても本当に上手だ)も掲載されていて、「こういう会誌を作る人たちって絵も上手いんやな〜」って感心していたのだ。

そして、このトリトンのプロデューサーはあの西崎義展氏である。彼は後に宇宙戦艦ヤマトを大ヒットさせるのだが、その背景にはこのトリトンでの手応えがあったに違いない。トリトンもまた視聴率では苦戦し打ち切りの憂き目にあったのだが、本来のターゲットよりも上の世代が注目し作品を蘇らせたという点ではヤマトと同じである。ヤマトが放送終了後に中高大学生を中心に人気を得、大ブームを巻き起こしたことはいまさら説明するまでもないことだが、トリトンの時にアニメファンという存在を認識していた西崎氏はヤマトの時もまた同じ手応えを感じていたはずだ。そしてそのファンの力を信じ、ヤマトを成功させたのだと僕は思う。
トリトンは後につながるアニメファンの活動の基礎を築き、アニメとファンの関係を変えて行くきっかけになった作品としても重要な位置にあるのだ。


↓トリトンのムック2冊

Photo_3「ファンタジー・アニメアルバム 海のトリトン(少年画報社)」
カラーページもたっぷり、スタッフインタビューあり設定資料ありの充実の内容。複製セル画、羽根さん描き下ろしヘプタポーダのピンナップもありで完全にアニメファン狙いの編集である。

Photo_4「ロマンアルバム 海のトリトン(徳間書店)」
1979年、ブームに乗って制作された劇場版を扱っている。こちらには主要キャストのインタビューがある。まだ少年の面影を残す塩屋さんの初々しいお姿も。


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2009年2月22日 (日)

恥さらしの時間(2)

ネタ貧である。
ネタがないときは自らの身を切って恥を晒すしかない。
前回ネタに少し絡めて、1978〜79年に描いた絵の一部を晒そう。

「宇宙戦艦ヤマト」のロマンアルバムに触発され、そこに掲載された設定資料などを模写しまくったのが1977年のこと。その恥の絵を晒したのが昨年。1978年に映画「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」が公開され、僕はすっかりヤマト熱に浮かされた。そして今度は「さらば」のストーリーをなぞってコクヨの計算用紙に絵を描き始めた。ロマンアルバムなど当時出版されたムック本からカットをチョイスして描いている。
その中から比較的ちゃんと描けてるのを選んではみたが・・・。

Yamato02
冒頭近く、古代が帰還し雪とデートするシーンと英雄の丘に立つ沖田の銅像。

Yamato01
こちらは防衛軍の命令を無視し発進したヤマトに潜り込んでいた雪と古代が再会するシーン。


このヤマトの絵は1ページに収めるカットが多く、文字もかなり小さく(汚く)細かい。読んでみると文章はきちんとしているが、ところどころ映画本編とは違うセリフもあるので、おそらくはノベライズ本か何かを写しているのだろう。描き進むうちに絵も文字も密度も上がってゆくのだが、段々飽きてきたのかそれとも疲れたのかデスラーが登場したあたりでこのノートはぷっつり終わっている。何事もやりとげられない性格っていうのもあるのだけど。


Kodai続いても「ヤマト」から古代進。1979年作。この頃になるとカットの模写では飽きたらず、自分でポーズや表情を考えて描くことも多くなっている。ヤマトのキャラはだいぶこなれてきてたようではある。

009_2
当時、アニメの新作が放映中だった009。表情暗すぎ。

Syoujo01_2最後はオリジナル絵。おんなのこ。・・・こういう絵が実は一番恥ずかしい。とにかくおんなのこをかわいく描きたいという欲求はこの頃から出始めたようで、あちらこちらの影響を受けたと見られる絵がたくさんある。これは「マカロニほうれん荘」の鴨川つばめの影響か?


この頃は若さゆえか短期間でもそれなりに絵が変わっている、というか少しは上達しているようである。線の強弱の付け方や、タッチの入れ方とかに工夫をしている絵が増えてきている。と同時に絵を描くことに対してそれなりの「いやらしさ」みたいなものが見えている。上手く描いてやろう、、、ていうか「オレって上手いだろ」という傲りが見える。・・・おそらくは、自分の周りにはあまりこのテの絵を描く人がいなかったので上手い気になっていたのだろう。まったくもって恥ずかしい。
だから、この頃に描いた絵は今見ても実はあまり好きにはなれないのである。

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2009年2月19日 (木)

ずっとアニメが好きだった(12)

〜アニメブームという熱・・・その2〜

“アニメブーム”とは一体何だったのか?

それは、“TVマンガ(マンガ映画)”が“アニメ”になったことだと僕は思う。それまで“TVマンガ”あるいは“マンガ映画”と呼ばれていたモノが“アニメ”というカタカナ言葉として世に認識され、映像のいちジャンル、あるいは若者文化として認知されたこと、それが“アニメブーム”だったのだと思う。
ただそれだけ??・・・のことではない。それはとても大きな出来事だったのだ。あの時代のあのブームがなければ、あるいはただのブームで終わったのではなかったからこそ今の日本のアニメの隆盛があるのは間違いない。ただの一過性ブームで終わらずに文化として定着したということは元々それだけの潜在的パワーを持ったジャンルであったということだ。それは決して恵まれているとは言えない環境の中にあっても、良い作品を生み出そうとするクリエーターたちの真摯な姿勢があったからである。アニメファンもまた「いい歳をしてアニメなんて・・・」という視線に対する反発みたいなものがあり自分たちの好きなアニメの力を信じ応援し続けていたからこそブームにもなったはずだ。ブームの引き金となたった「ヤマト」、あるいはブームをさらに一段高いところへ押し上げた「ガンダム」が、元はと言えばいずれも営業的に成功したモノではなかったということは象徴的な気がする。仕掛けられたものではなく「いつの間にかスゴいことになっていた」ということ、それは実はすごく重要なことだったのではないか。
70年代終盤の3年間を中学生として過ごした僕はアニメブームの洗礼をまともに浴びた。アニメブームは、当時の僕よりも少し年長の世代が中心になって引っ張っていた。だから大人の世界に足を踏み入れようとしていた僕にとって、その扉を開けてくれたのがこのアニメという新しい文化だったのだ。
小さい頃から大好きだった“TVマンガ”はとてもとても深い魅力のあるモノであることを知り、“アニメ”を観るのは発見の連続だった。あの頃の作品には本当に面白いものが多く飽きることがなかった。その当時観ていたアニメの面白さだけではなく子供の頃夢中だった作品の魅力も改めて知ることが出来た。

この70年代終盤はブームの名に恥じないほど僕らアニメファンの欲求に応える作品が次々と登場していたアニメの黄金期でもあった。特に78、79年は今もなお色褪せることのない数々の名作が生まれている。
有名な演出家の作品だけをざっと挙げてみても、宮崎駿は1978年に「未来少年コナン」79年に「ルパン三世 カリオストロの城」を、りん・たろうは1977年に「ジェッターマルス」「グランプリの鷹」78年には「キャプテンハーロック」79年には「銀河鉄道999(劇場版)」を、出﨑統は77年「家なき子」78年に「宝島」79年に「エースをねらえ(劇場版)」「ベルサイユのばら(19話以降)」を、富野喜幸(由悠季)は77年「ザンボット3」78年に「ダイターン3」79年には「ガンダム」を、長浜忠夫は77年「ボルテスV」78年「ダイモス」79年「ダルタニアス」「ベルばら(18話まで)」を、高畑勲は79年に「赤毛のアン」をそれぞれ制作・・・というように名だたる演出家が毎年のように新作を手がけている。今では考えられないくらい贅沢なラインナップだ。そしてこれらの作品には言うまでもなく大塚康夫や杉野昭夫、荒木伸吾、安彦良和などの作画監督、そして美術、撮影、音響などにも当然のごとく一流のスタッフが参加している。
彼らの多くはTVアニメの初期から活躍してきた。その才能が成熟しつつある時期とアニメブームとが重なった。この時期に名作が多く生まれた背景には制作現場での才能の開花とブームを支えたファンの相乗効果があったからだと僕は思う。良い作品を作ろうという作り手側の才能と情熱、そしてそれを受け止める事の出来る目の肥えたファンがいるという幸運がこの時期にはあったのだ。その目の肥えたアニメファンこそ、彼らの作品を物心ついた頃からそれとは意識せずに見続けてきた世代だ。TVアニメの歴史と共に育ってきたと言える世代がブームを支え、そのブームの高まりがより質の高い作品を求め、それが作り手にも伝わり次々と名作を生み出したと言えるのではないか。良い作品はさらに新しいファンを生み、ブームはどんどん高まっていく・・・言葉にするととても陳腐だが、とても熱い時代だったと思う。

僕はその熱に浮かされていた。とても心地よい熱だった。新しい何かが始まっているという思いとその渦の中に身を置き、存分にそれを楽しめた。
僕は、言わば“アニメブームど真ん中世代”だ(ずっと後に「オタク」という言葉が出来てからは「オタク第一世代」などとも呼ばれる)。多感な時期にこのブームを体験できたことは今でも本当に幸運だったと思う。時代の流れが大きくうねり、変わっていく瞬間を僕は間違いなく体験していた。そのことはいつまでも忘れることのない、大切な想い出だ。同じ体験をした人たちとは死ぬまであの頃の思い出話をするに違いない。
あんな時代はもう2度と来ないだろう。

以下追記。
上の記事は、前回の記事「009トークイベント」を書く前に準備していたものだ。
だから、そこでの芦田豊雄氏の話を聞いた後に読むと、自分の想い出だけを「イイもの」として書いているのがけっこうこっぱずかしい。あの頃のアニメブームの「負の遺産」のようなものがやはりある(「同人誌を作るようにアニメを作ってる」などの話)のだなと改めて思ったからだ。気づいていなかったわけではないが、現場の第一線で長年やってきた人の話だけに重みがあった。

・・・画像もなしでつまらん内容でした。すんません。

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2009年2月14日 (土)

009トークイベント at 杉並アニメーションミュージアム

杉並アニメーションミュージアムのトークイベント「009に魅せられて」に参加してきた。ゲストはアニメ「サイボーグ009(1979年版)」の監督・高橋良輔氏と同じくキャラデザイン・総作画監督の芦田豊雄氏。参加者は50人で私の同世代と思しき方々も多く見られた。

79年版の009について簡単に触れておくと、制作は東映。「東映動画」ではなく東映「本社」だ。東映の発注を受けるという形で日本サンライズ(現「サンライズ」)がアニメ制作の母体となった。高橋氏は実質的にこれが2作目の監督作品だった。物語は原作「エッダ編」ベースにした「宇宙樹編」、中盤には各キャラのエピソードを中心にした通称「バラエティ編」があり、後半が「ネオブラックゴースト編」と全体的にはアニメオリジナルといった感の強い作品だった。僕は10年ぶりとなる009のアニメ化にものすごく興奮し、期待を膨らませていた。放映時にはおそらく全話見たはずなのだが、なぜか熱狂的に支持するには至らなかった。何かが違う・何か物足りないと思っていたのだろう。けれど芦田氏の描く009達は僕はとても気に入っていた。原作のテイストを生かし、なおかつ芦田氏の個性が出ていて今でも僕の中で芦田氏が描くの009はお手本だ。

さてお二人のトークは石森プロのスタッフの司会進行で、出会いから009に関わるきっかけ、当時の想い出、現在のアニメ界の状況などバラエティに富んでとても面白かった。司会の男性(おそらく20代だろうか)がこなれていなくてもう少し話を膨らませたりしてくれれば良かったのに(おおまかなプログラムに沿っていたのだろうけど)というのがちょっと残念。当時のアニメを良く知る人に司会をしてもらいたかった(心の中では「オレに司会やらせろ〜!」なんて不遜な事を叫んでいた・・・爆!)。
面白く興味深い話はたくさんあった・・・あったが、すべて憶えられるほど記憶力もなく、録音は禁止の上、メモも取っていなかったので以下に書くことはそのごくごく一部、僕が印象的だった話だけだ。実際のトークでの発言とはかなり違うかも知れないので悪しからず了承の上、読んで頂きたい。


2人ともが異口同音におっしゃってたのが、石森先生の絵の事。高橋氏は「手塚さんの絵は上手なんだけどどこかクールで外国的。石森さんの絵には日本的な湿り気というか情緒がある」と言い、芦田氏は「線に思想がある。マンガの絵というのは記号なんだけど、石森さんは記号で絵を描くのではなく思想を線に込めている」と話していた。そしてその情緒や湿り気、線の思想みたいなものをアニメ化にあたっても意識していたという。その流れで芦田氏は「東映のはそれがなかったよね」とおっしゃっていたのだが、「東映の」とは翌80年に劇場公開された映画版009「超銀河伝説」のことだ。こちらは東映動画の制作。「要するに自分たちは単なる下請けだったんだよね。映画の話は一切来なかった。自分たちに頼めよ!って思っていた」とは芦田氏。「超銀」はまさしく「記号」の009でしかなかったし情緒も湿り気もないというのがお二人共通の評価だ。なるほど、僕も「超銀」は評価していないのだが、そういう風に言われるとあの映画に一番欠けていたのがなんだったのか少し分かったような気がする。
手塚治虫の絵が「外国的」に感じられるのはディズニーの影響があるからだろう。石森氏には東北の土着の、大地に根付いた何かが絵や作品にあるということなのだろうか。それが「情緒や湿り気」に通じるのかも知れない。だとすれば「超銀」で宇宙に飛び出したサイボーグ達にそれらがないのは当然と言えば言える・・・と考えるのはこじつけに過ぎるだろうか?

009のキャスティングについて初めて知ったエピソードがあった。当時主役のジョーの声を誰にするかということで悩んでいた高橋氏は、あるファンから井上和彦さんが適役だという推薦を受けたらしい。当時の井上さんはまだ若手であり、高橋氏はよく知らなかったらしい。さっそく井上氏に逢い、声を聞いた高橋氏はジョーにぴったりだと思った。そして、ファンの人というのは本当にめざとく見ているものだなぁと感心したという。

また、両氏は現在のアニメを取り巻く状況をとても憂えておられた。僕が009放映当時のアニメブームが現在のアニメにどういう影響を与えたと思うか、という主旨の質問をした。「テーマが大きすぎるよ」と芦田氏にチクリと言われたが、芦田氏は「ヤマトのブームがオタクを生み出し、そのオタクたちがアニメの制作現場に(スタッフとして)入ってきた。今ではプロデューサーも監督も作画監督もスタッフすべてがみんなオタク、そして観客もオタク。だからどこかで観たようなストーリーを、どこかで見たようなキャラで、どこかで聞いたような声と芝居でアニメが作られてしまってる。今はオタクってどこにでもいるでしょう?そしてみんなすごく(考えや行動が)よく似ている。そんな人たちばかりが寄り集まって、仕事だという意識ではなく、作りたいものを作ってるだけ。それはとても恐ろしい」というようなことを口にされた。今のアニメの多くは縮小再生産であり、個々の作品の対象マーケットは狭い。言わばオタクな人たちがオタクな人たちに向けた作品を同人誌のように作っている。つまりプロとアマチュアの差が無くなってきたとも言え、プロがプロの仕事をしなくなってきている(できなくなっている)と言うのだ。“オタク第一世代”としては耳の痛い話ではあったが、非常に説得力のある話であった。。高橋氏は「009の頃は確かにアニメブームではあったけど、『赤毛のアン』のような作品もあり作品自体が多様だった。あの頃は黄金期だったと思う。今のアニメ界の状況はあまり良くないと思う。日本映画が一度ダメになったが、最近はまた良くなってきた。アニメもいつまでも隆盛が続くとはいえない。盛り上がりがあればいつか下火になり、また良くなる時が来るのではないか」と言うようなことをおっしゃっていた。
お二人は日本アニメーター・演出協会(JAniCA)の発起人でもあり、アニメ界の現在、そして未来について誰よりも深く考えているのだと改めて思う発言だった。

上記の質問は、きっと質問コーナーが設けられると思いトークを聴きながら考えていたのだが、いざ質問する段になってアガりまくってしまい声も手も震え情けない話し方になってしまいかなり凹んでいる・・・。今さらながら小心者の自分が悲しい。質問内容が009と石森章太郎に直接関わりないものになってしまったことは申し訳なかったのだが、お二人の話は本当に面白く興味深いものだった。

今、僕は杉並アニメーションミュージアムの近所に偶然住んでいるのだが、ここはサンライズのスタジオも近い。そんなことを考えて今の住まいに越してきた訳ではないのだが、30年前に観ていた009やガンダムの制作スタジオの近くに今住んでいるということがなんだかとても不思議な気がするのだ。やっぱり僕の人生はアニメとともにあるのだなと思う。これも都合の良いこじつけなのだろうけど。

19796
←今回、もし可能ならサインをしてもらおうと思い1979年のアニメージュ6月号の表紙をスキャンしプリントしたものを持っていったのだが、サインや握手は最初から「ダメ」だということだった。残念。このふわっとした髪の感じが好きだった。

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2009年2月11日 (水)

手塚治虫のこと

先日の日曜、2月9日は手塚治虫没後20年の命日だった。
NHKBSで過去にNHKが放送した手塚治虫関連の番組をまとめて放送していて、僕は途中(「トキワ荘」のあたり)から観ていた。そして今週は手塚の特集を連日放送している。こちらの番組は録画しているがまだ観られないでいる。

手塚治虫。
これほど多くの切り口で語ることの出来る作家はいないだろう。最も知られた形容詞は「マンガの神様」。これについては説明不要だろう。そして裏の形容詞が「アニメの貧乏神」である。これは昨年の記事「手塚治虫ばかりがすごいのか」で書いたことが主な理由だ。現在のアニメ界の過酷な労働環境の元を図らずも手塚が作ってしまったという皮肉だ。
僕はご多分に漏れず手塚マンガの洗礼を浴びている。しかし、マンガ以上にアニメ好きになってしまったために手塚治虫に対してはある種複雑な心境を抱かざるを得なくなってしまった。それは「アニメの貧乏神」という以上に、手塚のアニメ作品が彼の描く漫画ほどには面白くなかったということが大きい。あれほど多岐に渡るジャンル、テーマでしかもエンターテインメント性を失わないマンガを描く人なのに、手塚のアニメはなぜかあまり面白くなかった。少なくともボクにとっては。「ジャンピング」「おんぼろフィルム」などの自主制作作品などに面白い作品はたくさんある。しかし、手塚マンガのように心をまるごと持っていかれてしまうような作品はなかった。
手塚治虫は生前から「僕はアニメーションを作るためにマンガ家になった」と公言してはばからなかった。そしてマンガと同じように、あるいはそれ以上にアニメにも情熱を傾け続けてきた。しかし、彼は自身がアニメに傾ける情熱に反して、皮肉にもアニメから愛されることはなかったと言えるかも知れない。
しかし、それはそれでいいのだと僕は思う。
これで手塚がアニメにおいてまで「神様」扱いされたのでは出来すぎだろう。日本を代表するこの2つの文化の何もかもが「手塚のおかげ」では、あの世で彼も苦笑するに違いない。「アニメの神様」にはなれなかったが、アニメ界にも(功罪両面あるものの)多大なる影響を残したことは間違いない。

「マンガの神様・手塚治虫」
その遺伝子は脈々と受け継がれて消えることはない。
もう二度と決して現れることのないとてつもない巨人、手塚治虫。
いくら語っても語り尽くせないものをこの世に残したことは疑いようもない事だ。
それで十分ではないか。

なんだかんだ言って、僕もまた「アトムのこども」なんだと思っている。

Bj2で、僕が一番好きな手塚作品「ブラックジャック」。久しぶりにペンと筆で描いてみたらへろへろの線になっちまいました。
アナログ絵がすっかりダメになってます(泣)

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2009年2月 8日 (日)

ずっとアニメが好きだった(11)

〜アニメブームという熱・・・その1〜

昨年のブログ開設以来、僕がアニメに興味を持ち始めたころの話を幾度となく書いている。その頃、1970年代終盤はアニメブームと言われ始めた頃だった。「アニメ」という言葉が普通に使え、通じ、そして市民権を得ている今の若い人たちには「アニメがブーム?」って訳が分からないだろう。そもそも「アニメ」という言葉が一般的になったのはこのアニメブームの頃からだ。

1977年に映画「宇宙戦艦ヤマト」が大ヒットした。映画公開前には「OUT」がヤマトを特集し大反響を呼んでいた。映画公開後に徳間書店からはロマンアルバム第1号「宇宙戦艦ヤマト」が発売され、同じ年の秋に朝日ソノラマからティーン以上のアニメファンをターゲットにした「マンガ少年別冊 TVアニメの世界」が出ている。ヤマトのヒットをきっかけに、世間では“アニメ”という言葉が飛び交い始めるようになる。そのヤマトを熱狂的に支持し、世に知らしめたのはティーンから大学生のアニメファンたちだ。若い高校生や大学生が、“子供の観るモノ”というのが常識の“TVマンガ”を支持していることが話題になり、それまで“TVマンガ”あるいは“マンガ映画”と呼ばれていたものは若者文化としての“アニメ”と呼ばれるようになった。そしてオトナになると“卒業”するものだったはずの“TVマンガ”はずっと見続けてもいいモノへと変貌を遂げた。ヤマト以前も、あるいはヤマトと同時期にもティーンを中心にアニメ作品に注目しファン活動をしていた人も多くいたが、ヤマトという作品の大ヒットが社会現象となり、それをきっかけとしてほかの作品やそれを取り巻くファンの存在が知られ始めていくことになる。そのことで僕のように「面白い作品はヤマトだけじゃないんだ」と知り他の作品にも興味を持ち、引いてはアニメそのものへの興味となっていった人も多かったハズだ。そうしてブームはより熱く高まっていったのだ。
1978年に公開された映画「さらば宇宙戦艦ヤマト」はアニメブームの熱をさらに高め、アニメの地位を一気に押し上げることとなる。そんな中、同年「アニメージュ」が創刊。ロマンアルバムを始め数々のアニメムックも発売され、アニメージュに追随するアニメ雑誌も次々に創刊された。キャラクターグッズ(子どものおもちゃなどではない)がアニメショップで人気を呼び、各地で声優やアニソン歌手のイベントやアニメの上映会などが開催された。ケータイもパソコンもインターネットもなかった時代だから、書籍は重要な情報源でありイベントは唯一の交流の場であった。そしてDVDどころか家庭用ビデオデッキすらあまり普及しておらず、上映会は大好きな作品を観る貴重な機会だった。だからこそ、集まるファンの熱気は凄かった。今では考えられないほどの不便さ故にファンの熱は逆に高かったのだろうと思う。だからこそ熱いブームに成り得たのだ。
このころはTVでもアニメを取り上げる番組が増え、声優やアニメ歌手が生出演することも珍しくなかった。朝の名物ワイドショーだった「小川宏ショー」に声優や歌手が大挙して出演した事もあったし、「サイボーグ009」の新作が79年に作られるときなどは2週に渡り「前夜祭」と称した番組が放送され9人の声を担当する声優さんが全員出演されていた。
こうしたブームが頂点に達したのは1979年、「機動戦士ガンダム」によってである。視聴率こそ伸びなかったもののガンダムはアニメファンのツボに見事にハマった作品だった。ガンダムはアニメファン人気の高まりとは裏腹に当初予定より10話分ほど短縮され打ち切りの憂き目に遭う。そのことが逆に熱を高める結果になり、後の映画3部作につながっていった。
グッズやイベントの展開、出版、ファン活動など、この1970年代終盤に起こった事のほとんどは今のアニメをめぐる状況の基礎になっている。同人誌即売会でコスプレが注目されたり、コミケが肥大化してゆくのもこの頃からだったろう。

(つづく)

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