日記・コラム・つぶやき

暑いですねぇ・・・

Photo_3
と、いうことで暑中お見舞いイラストです。
新作ではなく申し訳ないのですが・・・2年前の暑中見舞いはがき用に描いたモノです。

以下、イラストとは関係ないのですが。
暑い上に髪が伸びてちょっとうざったくなってきたので、髪を切りに行ってきた。
自転車で数分の、もう10年近く通っている行きつけの美容室。
お店のスタッフは20代が中心でとても若いのだけど、みな愛想がよくいいコばかりなのでとても元気になれる。今日も、暑くてしかも頭痛がひどかったのだけど髪を切ってもらいながらバカ話をしているといつの間にか頭痛も消えていた。長く通っているので馴染みのスタッフも多く僕が行くとみんなニコニコと挨拶してくれるし、帰り際にもわざわざ見送りに来てもくれる。僕に付いてくれたわけでもない時でもだ。そういうちょっとしたことだけでも案外嬉しいものだ。サービス業だから客に愛想良くするのはあたりまえだけども、マニュアル通りでなく、かといって馴れ馴れしくもなく、ちょうどいい具合に接客するのって意外に難しいと思う。そういう意味で、このお店は良い接客をしていると思う。でなければこんなに長く通うことにはならなかったと思う。
そんなわけであつくてグダ〜っとしていた中、ちょいとばかし元気になったのである。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

20年目の命日

僕の祖母が他界してから今日でちょうど20年になる・・・もう20年、いつの間にかおばあちゃんと家で過ごした時間を超してしまっていたわけだ。

僕はおばあちゃん子だった。
どこへ行くにも何をするにもおばあちゃんと一緒だった。幼稚園へ通うようになっても、幼稚園まで送ってくれたおばあちゃんから離れようとせず泣きまくっていたことをはっきり憶えている。お風呂も母よりおばあちゃんと入っていた記憶しかない。おばあちゃんが街へ買い物に行くときにもついて行った。バスに30分ほど揺られて「イズミヤ」や「三越」によく行った。三越に行ったときはいつも近くの洋食レストランでチキンライスを食べた。
小1のころのこと。
イズミヤだったか、スーパー屋上での「ミラーマンショー」に兄と二人(だったと思う)で連れて行ってもらった。おそらく折り込みチラシで知ったのだろう、僕はミラーマンにもらって欲しくてあらかじめミラーマンの絵を描いて持って行った。余談だが、「ミラーマンショー」なのになぜかエレキングがやられ役怪獣で出ていたのだけは良く憶えている(子供心に「ええかげんやなぁ」と思っていた)。
ショーが終わるとサイン会が行われた。ミラーマンは一生懸命にサインをしていた。子供たちひとりひとりの名前を聞いてちゃんと書いてくれていた。僕の順番が終わると係の人はさっさと列の外に押しやろうとし、僕はミラーマンに絵を渡し損ないそうになった。おばあちゃんは僕の肩をつかみ「この子が描いた絵をもらってやってください」とミラーマンに言った。そして僕の絵は無事にミラーマンの手に渡った。
このときのサインは僕の宝物になり、しばらく居間に飾ってあった。
小学校のころのおそらく夏休みだったろう、三越では「世界の爬虫類展」という催しをやっていておばあちゃんと僕は見に出かけた。熱帯の植物で彩られたオリやケースの中に色鮮やかなヘビやトカゲ、カエルなどが所狭しと展示されていた。ヘビやトカゲが大好きなおばあちゃんはとても楽しそうにしわだらけの笑顔で「面白かったな〜、また行こな」と言っていた。
「また」行ったのかどうか思い出せない。何度か行ったような気もするが憶えていない。
そもそも何度も開催されたのか・・・。
おばあちゃんが何度も何度も楽しそうに話すから、何度も行った気になっていたのかもしれない。

あの頃あんなににぎわっていた三越も、今はもうない。

18歳の僕は、大学進学のため東京へ行くことになった。
東京で新しい生活を送るため、おばあちゃんと過ごした家を離れることになった。
出発の日、まだ春浅く薄暗い朝の駅におばあちゃんは父母と共に見送りに来た。
おばあちゃんはどことなく寂しげな笑顔で僕を見ていた。このときは4年経てばまた家に帰ってくるつもりでいたけれども、僕は結局東京で就職しおばあちゃんと共に暮らす日々はもう2度と来ることはなかった。
おばあちゃんと暮らした家は年に2、3度帰るだけの場所になった。

僕が帰省する日、おばあちゃんはいつもバス停まで迎えに来ていた。帰る時間も決めず、何時に着くか分からない僕をいつも待っていた。
僕が乗っているかどうか確かめるために到着したバスを見上げるおばあちゃん。僕は軽く手を振る。おばあちゃんはバスから降りる僕に微笑みかける。
おばあちゃんは僕の乗っていないバスをいったい何本見送ったのだろう。

おばあちゃんと僕はゆっくりゆっくりと家までの坂道を登る。
僕はおばあちゃんの背中を押している。
いつの頃からか僕は家までの坂道をおばあちゃんの背中を押してあげるのが決まりになっていた。おばあちゃんはいつも「ああ、楽ちんやわあ」と言う。
坂道の最後の方、家まであと少しという辺りには昔、両側から木が覆い被さりトンネルのようになっていた。夏などはそこで一休みして「ここの日陰は気持ちええなぁ」とおばあちゃんは必ず言っていた。今はもうその木のトンネルもなくなったが、木の葉の間から差すキラキラした光を僕は今もよく憶えている。

就職して2年目の5月のこと。連休を利用して僕は帰省していた。
おばあちゃんは胃の調子が良くないと言っていた。けれど、家族で外にご飯を食べに行くと久しぶりにおいしく食べられたと笑っていた。
僕は安心していた。いや、安心したかったのだ。心の底は不安で一杯だった。なのに僕はおばあちゃんを気遣うような言葉は何一つかけてあげられなかった。
東京へ戻る前日、畑仕事を手伝っている時、不意におばあちゃんは言った。
「なあアキラ、頼むさかい帰ってきてや」
なんで急にそんなことを言うのだろうかと、僕はびっくりし少し困ってあいまいな笑みを返してうなずくことしか出来なかった。
けれど、本当は言いたいことがあった。

『帰ってくるがな。僕の帰る家はここだけやで』

なのに言えなかった。

明くる日、母とおばあちゃんと玄関先で分かれた僕はバス停へ向かい坂道を下っていた。いつもはただひたすら歩くのに、その時は坂の途中でなんとなく振り返った。
坂の上におばあちゃんが立っていた。
ドキッとした僕は手を振ることもせず、すぐに向き直りそのままバス停に向かった。そして、後ろめたい気持ちを抱えたままバスに乗り駅に向かった。
おばあちゃんは僕が振り返ったのに気づいていただろうか。
なんで、あんなところまで出てきていたんだろう・・・。
モヤモヤしたもので気持ちがいっぱいになってゆく気がした。
あの坂の上が昔のまま木で覆われていたらおばあちゃんの姿は見えなかったのに・・・

おばあちゃんが立っている姿を見たのはそれが最後になった。

それからひと月ほどでおばあちゃんは逝った。
80歳の誕生日の3日前のことだ。
僕は入院したおばあちゃんを見舞うため帰省していたが、とりあえず容態に大きな変化はなく一旦東京へ戻ろうとしていた朝だった。父と兄は仕事へ、僕は東京へ向かおうと家を出ようとしたまさにその時病院から連絡が入った。
携帯電話などなかった時代、あと10分でも病院からの連絡が遅かったら僕はもう引き返せなかったはずだ。
「おばあちゃんが僕を引き留めたんや」と思った。
けれども死に目には会えなかった。
病院へ駆けつけたときおばあちゃんはすでに息を引き取っていた。

結局僕はおばあちゃんになにひとつ優しい言葉もかけられないままになってしまった。あんなに優しく、いつも僕の心配ばかりしていたおばあちゃんになにひとつ返せないままになってしまった。
あの時坂の上のおばあちゃんに向かって手を振れば良かった。
あの日の夕方「いつでも帰ってくるで」と言ってあげれば良かった。
なんでそんなことができなかったのだろう。

おばあちゃん、ごめんやで。
今でもたぶんあの世で僕の心配ばっかりしてるんやろな。
そんな不安そうな顔せんといて。僕は大丈夫や。
あの家はいつまでも僕の帰るたった一つの家やで。
おばあちゃんにもっと「ただいま」って言いたかったわ。
ごめんな。
ほんで、ありがとうな。

僕は今でも家へ帰る坂道を登るたび、おばあちゃんのことを思う。
おばあちゃんの大好きだった木陰はとっくの昔になくなって、新しい家がたくさん建ったけれど坂道だけは昔のままだ。
そして坂道を下る時、途中で振り返る。
そこにはあの日寂しそうに僕を見送ってくれたおばあちゃんが立っている。
僕は心の中で手を振る。

おばあちゃん、ばいばい。
けどまた帰ってくるで、せやからちょっとだけばいばいや。

Photo

←ミラーマンのサイン。今も宝物だ。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

エコとエゴ

昨日の日曜日、某民法では 「Touch! eco2008 明日のために・・・」という番組を、NHKでは「SAVE THE FUTURE」という番組を放送していた。どちらも今盛んに叫ばれているエコキャンペーンの一環だ。ちらちらと見ていただけなので番組の内容についての言及は控えるが「我々は考えてますよ」というアピールであることは明白だ。同じように「いかに環境に配慮しているか」をアピールする企業CMも目に付くようになった。こんな風に世間が声高にエコだなんだと言うのに対し、僕のようなひねくれものは違和感を感じる。「地球のために」「未来のために」という言葉は響きが良く、そう言われればなんとなく納得してしまうのが人情である。しかしちょっと待て、「地球のため」?・・・地球はそんなことを望んでいるのか?「未来のため」?・・・僕たちが未来に責任など持てるのか?
確かに地球環境の破壊は抜き差しならないところに来ているだろう。けれど心地いい言葉でごまかしてはいけない。こんな地球に誰がした?・・・それはほかならない僕ら人間だ。そして今、その報いを受けようとしているのに「地球のため」なんて言葉でごまかすのは真実を見えなくするだけである。
エコとは「地球のため」なんかじゃなく「自分たちのため」なのだ。自分たちの生活、それも今のように便利で快適な生活を続けたいがためのエコなのだ。
それは結局エゴでしかない。
だってそうだろう、本当に地球のことを考えるのであれば「やれることことからやって」いては遅いのだ。徹底的に今の文明を捨てるほどの覚悟でなければ。
ホッキョクグマの生息が脅かされていると知って、可哀相とは思ってもだからと言って何が出来る?壮大すぎて想像もつかないだろう。結局夏が来たらみんな冷房を入れるんだから。その気なら、今すぐガソリン車とディーゼル車は全世界で禁止にするべきだし、オゾン層を破壊するジェット機の使用もやめるべきだ。TV放送も夜の12時過ぎたらやめればいい。コンビニの24時間営業もやめよう。
でも出来ない。出来るわけがない。そんなことをしたら世界中の経済が破綻してしまうし、不便で仕方ない。そういう世の中にしてしまったのだ。そしてそれを望んだのも僕たち人間だ。
だから、後ろめたい気持ちを隠して響きのいい言葉で真実を覆い隠す。
エコバッグで買い物をし「いいいことをしている」気になる。
ゴミの分別をし「いいいことをしている」気になる。
けれど「やらないよりはやったほうがいい」に決まってる。そのことを否定はしない。「どうせダメなんだから」と何もしないことは何より恥ずかしい。
ただ僕は、それを「地球のため」とかいう言葉でごまかしたくないだけだ。僕だって便利な生活は捨てられない。可能な限りの贅沢はしたい。けれど地球がダメになってしまったらそれも出来ない。
だからやれることはやる、自分のために。それだけだ。
けれども、そんなことでどうにかなると僕は思っていない、もうずっと前から。

そう思うのには、子供の頃読んだある漫画が関係していると最近思うようになった。
石ノ森章太郎の代表作、サイボーグ009の「天使編」という作品だ。
これは人類を作ったという、天使の姿をした「神」があまりに人類の出来が悪いため一度排除し、イチから作り直そうという物語だ。それに対抗しようとする9人のサイボーグたちの戦いを描くはずだったが未完のまま石ノ森は世を去った。
この作品は本当に衝撃だった。
そして今僕はこう考える。
石ノ森章太郎は考えれば考えるほど絶望的な気分になってしまい描けなかったのでは、と。そもそも作品の発端が「人類の出来の悪さ」である。少なくとも石ノ森は自分を含めた人類の出来が「悪い」と考えていたのだと思う。そして「天使」とは地球の化身だったんだと僕は考える。人類を排除しようとする地球そのものと戦ってサイボーグたちが勝てるのか、勝ったとしてその地球に未来はあるのか、そう考えるとサイボーグたちの戦いは過酷というよりはあまりにも虚しく無意味に思えて描けなかったのではないだろうか。

結局、人間は地球の大きな力の前にはなすすべなく呆然とするだけだ。人間が「地球のために」どうこうしようとするなどおこがましい考えだと思う。
地球は人間なんかに守ってもらわなくともきっと再生する。ただ、そのために邪魔な人類はきっと排除されるだけなんだろうと思う。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

くいだおれ

大阪随一の繁華街「道頓堀」。阪神優勝の際、アホどもが飛び込んだことで有名な場所。その橋(戎橋)のたもと、知らない人がいないであろう「かに道楽」の巨大なかにを左に見て10数メートルほど歩いた辺りの右側には、いつも人だかりがある。近づいて行くと「チン、ドン、チン、ドン」とのんびりした鐘と太鼓の音がする。今時の音楽で賑やかな周りに比べるとかなりアナクロな感じがする。音の主は人形だ。赤と白の縞々の服を着て首を左右に振りながら眉を上下させニコニコと愛想を振りまいている。どことなく大村昆かチャーリー浜のような顔つきのこの人形、名を「くいだおれ太郎」という。大阪の食堂「くいだおれ」の看板人形だ。今や大阪の観光名所となっており、行ったことはなくとも知っている人も多いと思う。
先月この「くいだおれ」が7月で閉店になるという(大阪人にとっては)かなりショックなニュースが流れた。「ウソやろ〜」と大阪人の誰もが思ったに違いない。

♪くいだおれ〜くいだおれ〜
なにわのこころくいだおれ〜
道頓堀のくいだおおれぇ〜♪

子供の頃はTVをつけたらこんなCMソングがいつも流れてた。
関西に住む(住んでいた)ある年代以上の人にとって、このCMソング(作曲はもちろん浪花のモーツァルトことキダ・タロー大先生)を知らない人はいないのではないかと思う。
僕がこの「くいだおれ」でご飯を食べたのは、たぶん子供の頃父に連れられて行った1回きりだ。だから「くいだおれ」というとこのCMソングとこの人形「くいだおれ太郎」のことが真っ先に思い浮かぶ。そもそも「食い倒れ」とは「大阪の人間は食べることがあまりに好きなために財産を失う」という大阪人気質を表した言葉であるが、そういう意味よりも先にこの店(のCM)によって知ったくらいなのだ。
子供の頃に見たこの人形、正直子供心には安っぽく思えたし大阪に住んでた高校時代まではこれといった思い入れもなかったのである。しかし大学進学と同時に東京へ出てから早や20数年。「大阪らしいもの」が妙に懐かしくなり、この「くいだおれ太郎」もそういったもののひとつになっていた。
大阪へ帰省し、道頓堀へ行くと「くいだおれ太郎」はいつもそこにいた。昔と同じチープな衣裳を身にまとい相変わらず間抜けな音を出している。けれどそれがなぜか妙に嬉しく「ああ、大阪やなぁ」と安心するのだ。
新しいモノがもてはやされ古いモノはどんどん消えて行く。歴史ある大阪も例外ではない。そんな中で彼は何十年も変わらぬ姿で僕を迎えてくれていた。しかし、ひょっとするともう次に帰った時、彼はいないかも知れない。
飲食店の経営はシビアだ。「くいだおれ」という名前と人形に思い入れがあっても、その利益に貢献していない僕が何を言おうとそれは身勝手な郷愁だ。
けれど身勝手を承知で「くいだおれ」と「くいだおれ太郎」はいつまでもそこにあってほしいと思う。なぜならば「いつもそこにあるもの」と思っていたものがどんどん消えて行く寂しさは、遠く離れたところで暮らしているほどに感じるからだ。
太郎の周りにいる人たちはみな幸せそうに笑っている。そんな風景をみながら、大阪の大阪らしいものはどうにかして残って欲しいと切に願う。けれどもその一方で昔ながらの「くいだおれ」とはどのみちもうお別れなのだということも分かっている。仮に太郎だけ残ることになったとしてもそれはもう太郎であって太郎でないのだ。そう思いながら「くいだおれ太郎」の顔を見上げたら、いつもの顔で笑ってすぐに向こうを向いた。その横顔が寂しそうに見えたのは、やはり身勝手な郷愁ゆえなのだろうか。
Cimg0248

この前日、5月7日に彼はミュージカルの舞台に立った。
で、このセリフ。

Cimg0237


で、その日は弟が留守番。
実はとても貴重な一枚なのである

| | コメント (7) | トラックバック (0)