日記・コラム・つぶやき

2010年1月 7日 (木)

鉄人28号 at KOBE

01

正月休みを利用して神戸市長田区に昨年完成した鉄人28号を見に行ってきた。建造中に一度見てはいるが、完成してからは初めてだ。
ガンダムと違い、いかにも漫画的で丸っこいフォルムだが、ひいき目なしに見ても美しく洗練されたデザインだと思う。こんな寸胴で短足なのに本当にカッコイイ。僕はものごころついたころに鉄人のアニメを観た世代だから余計にそう思うのかも知れないけれど(僕が使っていた幼稚園の遊園鞄は鉄人のイラスト入りだった)。

昨年お台場に建造されたガンダムは期間限定のお祭り騒ぎだったし、お金のかけ方人出ももハンパではなく、今や世界に拡がる超メジャーなキャラクターらしいものだった。
一方の鉄人は、神戸市の中心からは外れたごく普通の町に作られた。震災復興のシンボルとして、大企業主体のプロジェクトではなく神戸市や地元の商業主の主導で寄付金などを募りながら建造された、言わば「手作り」のものだ。だからこれから先もずっと震災復興のシンボルとしてその力強い姿で地元の人々を見守り続けるだろう。一過性のお祭りではなく、そこにいることが当たり前の存在として根付くに違いない。「わたしの生まれた町には鉄人28号がいるんやで」と地元の子が誇りに思う存在になったらどんなにか素敵なことかと思う。そして願わくば、横山光輝の名と共に鉄人も時代を超えて愛され続ける存在になって欲しいと思う。

僕が訪れたのはすでに三が日を過ぎた後だったからか、鉄人の周辺は地元と思しき人々ばかりであった。そこでは小さな子ども達がその大きな足下ではしゃぎ回っていた。ここがわずか15年前、未曾有の大災害に襲われた事が嘘のような平和な時間。だけど、この小さな町ののんびりとした夕方の風景の一部になっている鉄人の姿はどこか誇らしげでもあった。

「どうかこの平和な風景がいつまでも続きますように」僕はそう願わずにはいられなかった。

02
鉄人、ほんとにカッコイイ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月30日 (水)

さよなら2009年

Photo

2009年の終わりが近づいた。

この1年はとてつもなく早く過ぎたような気がする。まあ、大体が歳をとってくると一年一年というのが早く感じるものだろうけど、今年は本当に誇張なしにあっという間の1年だった。
年始めにはちょうど30年前の1979年に出会った素晴らしいアニメ作品について、このブログで触れるつもりである、なんてことを書いたのだが、実際はほとんど書くことができなかった。年の初めには1年という時間はものすごく長い気がしているので「いくらでも書けるな」なんてタカをくくってたわけだ。で、実際はこのていたらく。時間がなかった・・・ってことではなく単にサボってただけである。ヒマな時間ほどダラダラしたくなる生来の怠けグセゆえだ。
ま、そんなわけで結局2009年も、無為に人生を浪費したのみであった。

そんなわけで、せめて1年の終わりにその30年前に夢中で観ていたアニメ「マルコ・ポーロの冒険」の主人公マルコを描いてみた。人生を浪費することのなかった人物。僕が東京でダラダラ過ごしてきたのとほぼ同じ年月を命がけで旅した男だ。
そして、この作品についてはまた改めて触れることになるだろう(例によってまたいつのことになるやら、だが・・・)。

************************

ここを訪れてくださる皆様、今年一年ありがとうございました。
相変わらず宇宙の辺境ブログですが、今年後半からほんの少しですが1日平均のアクセス数が上がってきました。やってることはなんも変わらず、、、でありますがそれでもなんとなくうれしいものであります。
来年は21世紀もすでに10年目に入ります。
世の中が少しでも良い方向に動いてくれることを願っています。

| | コメント (14) | トラックバック (0)

2009年12月27日 (日)

古代雪38歳?

Photo

「復活編」では、ほとんど出番のなかったユキ。
動きのあるシーンは艦の爆発で服が破けるというサービスショット(?)のみ。あとは写真の中、そして声のみだった。その声も麻上さんではなかった。
麻上さんが出演されなかった経緯は色々あったようだが、ファーストシリーズからのファンとしてはやはり残念だった。富山さんと違ってご健在であり相変わらず美しい声をされているのだから。母になったユキの声を今の麻上さんがどのように演じられたか聴きたかった。

今年も残すところあとわずか。
この年末の僕は、こころの中のかなりの部分をヤマトに占領されてしまっていた。
復活編そのものは楽しく観ることはできたが、僕にとって特別な作品とはならないだろう。そして、そのことはオリジナルのTVシリーズ「宇宙戦艦ヤマト」と、その続編であり本当の完結編になるはずだった「さらば宇宙戦艦ヤマト」が僕にとってどれほど特別な作品であったかを改めて教えてくれたのだ。
復活したヤマトも僕は受け入れる。だが、そうすることで30年以上も前に観た「ふたつのヤマト」への思いは余計に大きくなるのだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月23日 (水)

ぽかぽか

Photo

会社の方にゆずをいただいた。
だけどもゆずを使った料理などするわけでもなく、ここはやっぱ一番簡単なゆず湯にということで風呂に浮かべた・・・のだが。
1個ってどないやねん。
かすかな香りはするが、やっぱ2、3個はないとアカンか・・・。
かえってもったいないことしたのか。
こんなんで風邪予防はムリやろな。でも、まあ気は心とゆうことで。

そんなわけでおっさんが風呂に浸かってる絵を描いても世のためにはならないので、せめて女の子の絵であったまってください。ずいぶん荒い絵ですけど。

ゆず湯でふと思ったのだが、僕の生活はずいぶん季節感に乏しい。もちろん季節の移り変わりで装いも変わったりするのだが、そんな程度だ。その季節ならではの食べ物や、行事などとはとんと無縁な生活である。

思えば、子どもの頃の我が家は生活と季節とが密接に関わっていた。

季節が都会では分からないだろうと・・・

・・とは「北国の春」の一節だ。
僕は北国ではないが山あいの田舎で育ったので、気候の変化以外に季節の移ろいを感じるものはいくらでもあった。季節が変わるということ、特に冬を迎えるにはそれなりの準備もしなければならなかった(雪国の比ではないけど)。暦に従った風習もたくさんあった。食卓には季節の野菜がならび、当たり前のように食べていた。それがどれほど贅沢なことなのかを知ったのはそんな昔のことではない。

都会に長く暮らしていると、それがあたかも自分の全てであるかのように錯覚してしまうことがある。だけど、僕の身体と心を育んでくれたのは田舎での暮らしだ。今よりもずっと何もかも不便で暮らしにくかったはずなのに、そんなことを思ったことは一度もなかった。それは僕がまだ苦労知らずの子どもで、家族に守られていたからなんだろう。
真冬になると水道管が凍り付くのは当たり前なくらい寒い土地だったけど、今のマンション暮らしよりも何倍も何倍も暖かな暮らしがそこにはあった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年11月29日 (日)

響子さん、好きじゃぁ〜っ!!!

2

と、いうわけで「めぞん一刻」です。10何年、いや、20年ぶりくらいに全15巻を一気に読み返した。いや〜、やっぱ面白かった。

僕が10代後半から20代前半にかけて最もハマった漫画であり、各巻の奥付を見返してみたら第1巻以外は全て初版本を購入している。「めぞん」は当時創刊したばかりの「ビッグコミック・スピリッツ」の看板連載だったが、僕は連載では読んでおらずおそらくはどこかで評判を聞いて第1巻を購入したのだと思う。その後も連載には目もくれず、単行本が出たらまとめて読んでいた。2巻以降すべて初版を買っていたとは自分でも驚きだが、それだけ楽しみにしていたということなんだろう。

「めぞん」を読み返して改めて感じたのは「幸せなモラトリアム」ということだ。

主人公の五代は苦労ばかり背負い込み、いつもいつも大変な思いをする(本人の責任もあるけど)。でも、彼は大好きな響子さんと一つ屋根の下に暮らしているし、迷惑でおかしな人たちだけどかまってくれる隣人たちがいる。慕ってくれる女の子もいるし、恋敵もいればちゃんと悪友もいる。少なくとも孤独ではない。つまり五代は決して不幸ではなくむしろ幸福なのだ。だから彼が毎日考えていることといえば、どうにかして響子さんと「うまくいく」ことだけだ。それだけを考えられる日々なんてどれだけ幸せであることか。
一方の響子さんは死んだ旦那さんを忘れられないでいるけれど、自分を好いてくれる男が身近に2人もいる。どちらも嫌いではないけど、亡くなった夫へ操を立てる気持ちもあってか、態度をはっきり決められないでずるずると結論を先延ばしにしている(読者には五代の方を好きだと分かるように描いてはいる。特に中盤以降は)。だけど五代や三鷹、そして一刻館の変な住人達に振り回されながらも日々の生活に充実感を持って生きられるようになり、悲しみも薄れてゆく。彼女も、そうした「幸せなモラトリアム」を日々生きている。

恋愛の何が楽しいって、自分が誰かを好きになるということ自体がまず楽しい。そしてその思いを相手にいかにして伝えようかと考えることが楽しい(しんどいことも含めて楽しい)。相手が自分のことをどう思っているのか、探りを入れながら会話したりするのが楽しい。自分の好きな相手が自分に気があるかも知れないと思えるようになり、少しづつお互いの心に触れ合っていくことがまた楽しい。そうやってお互いが本当に好きだと確認できるまでの期間(あるいは決定的にフラれるまでの期間)、ジリジリ、ドキドキしながら色んな事を考えているのが何より楽しいんだと僕は思う。それが「幸せなモラトリアム」ということだ。「めぞん」は15巻に渡って、その「幸せなモラトリアム」を描いているのだと思った。
僕の若い頃に「モラトリアム人間」という言葉が流行ったが、それは、もう一人前の大人にならなければいけないのにいつまでも大人になろうとせずお気楽な身分に甘んじていたがる若い連中のことだ。もちろん否定的な意味で使われていた。「めぞん」もモラトリアムな人たちの物語だ。だからこそいつまでもそうではいられない現実の中で、ある意味ユートピアとも言える物語世界に惹かれたんだと思う。


「めぞん」連載時、僕は主人公の五代とほぼ同世代だったので、けっこう感情移入をして読んでいた(幸いにして僕は浪人もせず就職もすんなり決まったけど)。僕も田舎から東京へ出てきて、風呂なしトイレ共同のアパートに暮らしていたのだが「一刻館」のように美人の管理人もおかしな住人(迷惑なだけの住人はいた)もいはしなかった(当たり前だが)。だけど、少しは住人同士の交流やお付き合いなんかもあるんじゃないかと上京前には思っていたがそんなものは欠片もなかったのである。まあ現実なんておおかたそんなもんだし、あったらあったで煩わしく思っていただけかもしれない。
大学時代は社会的に認められた最後の「モラトリアム」だ。高校時代ほど学校にも勉強にも縛られないし、僕のように親元を離れていたら親からも自由だ。社会的責任もない。毎日の生活はすべて自分次第。何よりも人間関係の自由さは大学時代ならではだった。思えば本当に現実と向き合ったのは就職活動を始めてからのことだった。それまでの時間は本当に気楽だった(当時は4年の夏からが就職活動の本番だった)。いや、それでも当時は当時なりに色々思い悩んで苦しんではいたはずだけど今から思えばそんなことで思い悩んでいられたことが、どれだけ幸せだったのかということを感じないではいられない。結局その頃の僕にとっても最も重要だったのは好きな女の子のことでしかなかった。

「めぞん一刻」は、そんな人生で最もお気楽で幸福だった時代を僕に思い出させてくれる作品なのだ。
ほんの小さな胸の痛みとともに・・・。


1

2_2
当時の「ビッグコミックスピリッツ」新聞広告。こんなもんまで取っておいてたんだ、オレ・・・。

Photo
コチラは庭掃除の時は髪を束ねてることが多かったかなと思い、描いてみた髪束ねバージョン。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年11月24日 (火)

作詞家・丘 灯至夫さん亡くなる

舟木一夫のヒット曲「高校三年生」の作詞で知られる丘 灯至夫(おかとしお)氏が亡くなった。92歳だった。
「丘 灯至夫」という名前を聞いてピンと来る人は少ないと思う。「高校三年生」ですら僕が生まれる前年のヒット曲だから、僕がものごころついた頃にはすでに世間では「懐メロ」に近い扱いの歌だった。
かく言う僕も「オカトシオ」と音で聞いてすぐにピンとは来なかった。だけど「丘 灯至夫」という漢字には見覚えがあった。それは子どもの頃毎週のように見ていた文字だった。それは大好きだったアニメのスタッフ・クレジットで流れていた。丘さんの書いた歌に僕は(いや僕らの世代は皆、間違いなく)小さい頃から親しんでいたのだ。

その親しんできた歌とは、

♪クシャミひとつで呼ばれたからは それが私のご主人様よ〜♪ 

・・・で始まる、おなじみ「ハクション大魔王の歌」である。そのエンディング曲「アクビ娘の歌」やおなじくタツノコ作品の「みなしごハッチ」「紅三四郎」など(「カバトット」なんてのもある)も丘さんの作詞である。毎回毎回番組のOPやEDで見る「丘 灯至夫」という文字は、読み方は分からなくても「カタチ」として頭に刷り込まれていた。だから今日の訃報に接したとき、僕はそれが誰であるか分かったのだ。

丘さんの代表曲である「高校三年生」はあまりにも有名なので僕より若い人でも聞いたことはあるかもしれない。だけど、同じ丘さん作詞で歌も同じく舟木一夫の「涙の敗戦投手」という歌はあまり知られていないと思う。これは昭和39年に発表された歌で、直球ど真ん中ストレートな内容である。

みんなの期待 背にうけて
  力のかぎり 投げた球
  汗にまみれた ユニフォーム
  だけど敗れた 敗戦投手
  落ちる涙は うそじゃない

フルコーラス聴きたい方はコチラ

曲調と言い歌詞の内容と言い、いかにも古めかしいが僕はこの曲が好きだった。高校野球の「心」を歌った名曲だと今でも思う。
この歌を初めて聴いたのは小6のころだったと思う。ある年の夏の甲子園が終わった直後に放送された、過去の大会を振り返る番組のBGMに使われていたのだ。僕はその番組をたまたま録音していて何度も繰り返し聞いて、この歌を覚えた。だけど当時はBGMで使われただけなので「高校三年生」というタイトルも歌手も知らなかった。ただなんとなく曲調が「高校三年生」のようだし、声も舟木一夫に似ているなぁとぼんやり思っていた程度だった。随分長い間この歌のことを思い出すこともなかったのだが、たまたまこの夏、別の高校野球をテーマにした歌のことを調べていたときに思い出して調べてみたら「高校三年生」と同じ、丘 灯至夫:作詞、歌:舟木一夫(作曲者は別)だということを知ったのだった。いつか、この歌についてもブログで書こうと考えていたところに今日の訃報であった。

今日の丘さんの訃報を聞いて、アクビちゃんやハッチを思い浮かべる人は少ないだろう。だけど、日本中でこれらの歌を聴いて育った人はたくさんいて、今日もどこかのカラオケ店で歌われているに違いない。

♪ゆけゆけハッチみつばちハッチ とべとべハッチみなしごハッチ♪

丘さんと縁もゆかりもない人が、丘さんの作った歌ということも知らずに今日も歌っている。なんとも不思議で素晴らしいことだ思う。丘さんにとってもそれは何よりも喜ばしく、そして「歌」そのものにとっての幸せであるに違いないと、僕は思う。。

Photo

Photo_2

「ハクション大魔王」と「紅三四郎」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月18日 (水)

秋深し・・・

Photo_4

・・・ていうか、もう冬もすぐそこ。
北風小僧の寒太郎がやってきましたね。
♪寒うござんす、ひゅるるるるるるん〜

街を歩くモッズコートの女の子がかわいくて目に付くのでちょっと描いてみました。

みなさん、風邪、そしてインフルエンザに気をつけてください。


| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年11月11日 (水)

森繁久弥氏逝去

俳優の森繁久弥氏が96歳で亡くなられた。天寿を全うしたといえる大往生である。
森繁氏のことを僕があれこれ書くまでもないだろう。数々の映画やドラマ、舞台で活躍されてきて、その足跡の大きさは全ての日本人が知るところである。

森繁氏は数少ないながらもアニメに声優として出演している。
日本初の本格的カラー長編アニメ映画「白蛇伝」(1958年)で宮城まり子と2人で、すべてのキャラの声を演じるという離れ業をやってのけた。そして1997年の大ヒット作「もののけ姫」では猪の長「乙事主」の声で重厚な演技を見せている。宮崎駿は白蛇伝を観てアニメへの道を志したと言われているが、もののけ姫での森繁氏起用の根底には白蛇伝への思いがあったのではないかと思う。
ほかにも、僕は未見だが 2001年の「ドラえもん のび太と翼の勇者たち」や、「スノーマン」で有名なレイモンド・ブリッグス原作の「風が吹くとき」の日本語版にも出演している。

あと、これは個人的なことだが森繁氏は僕と同郷で、地元の名誉市民でもある。
故郷の偉大な先輩の死を悼み、冥福を祈りたいと思う。

Photo_2

「白蛇伝」この美男も森繁さん・・・。


| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年11月 5日 (木)

松井秀喜MVP!!!!

今日(米国時間4日)大リーグ・ヤンキースが27度目のワールドチャンピオンに輝いた。そして我らが松井秀喜がシリーズMVPに輝いた。ワールドシリーズMVPはもちろん日本人初である。
僕はいつか、こんな日が来ることを夢見ていた。

2006年のケガ以降、苦しみ抜いてきた松井。今年は不要論までとびだすほど追い詰められた中でのこの偉業は、松井が本当に価値あるプレーヤーであることの証明だ。優勝目前、9回のリベラのピッチングをみつめる松井の静かな表情が印象的だった。なんて美しい表情なのだろうと思った。

松井秀喜おめでとう!
君は僕ら日本人の誇りです。心からの祝福と敬意を捧げます。
本当におめでとう。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年11月 4日 (水)

タツノコの遺伝子

先日NHKのBSハイビジョン特集で「アニメ青春時代 夢に挑んだ男たち」という番組が放送された。日本のTVアニメ黎明期から独自の路線でひときわ大きな輝きを放ったタツノコプロの物語である。

Photo
文字通り「遺伝子」を受け継いだ吉田竜夫氏の長女・吉田すずか版の、現代風にアレンジされたアクビちゃんを参考に描いてみた。

1963年(昭和38年)に始まった鉄腕アトムに刺激を受けた吉田竜夫が自分もアニメを作ろうと、マンガ工房だったタツノコプロをアニメ制作会社に変貌させた。漫画家で挿し絵画家でもあった吉田だがアニメに関してはまったく素人、そこへ新聞広告によって集まった人々もまた素人ばかりであった。唯一、吉田が声をかけた笹川ひろしだけが手塚治虫の元でアニメ制作を経験していたのみであった。
そんな素人集団ゆえか、既成概念に縛られない自由な作風がタツノコの持ち味となり、そこからは個性溢れるクリエーターが数多く輩出されたのである。
番組で紹介される主な“タツノコ出身者”は、後にガンダムやナウシカの美術を担当し、あの傑作・マッハ号のデザインを生み出した中村光毅、同じくガンダムのメカデザインなどででいまや知らぬ人のいない大河原邦男、大河原はガッチャマンの敵メカなどを始めとするメカデザインやタイムボカンシリーズを担当しており、アニメ界で「メカニック・デザイン」という肩書きを初めて持った。そして劇場版「地球へ・・・」などで知られる実力派アニメーターの須田正己、画家の天野嘉孝。大河原がメカデザイナーなら天野は「キャラデザイン」の専門家だ。アニメーターを経験せずにキャラデザイン専門の役職というのは極めて異例だった。そしていまや世界的映画監督の押井守らである。
そしてこうした人々の才能を信じ、開花させたのが吉田竜夫であった。吉田は多くの人間を育て、僕らに夢を与えてくれた。そしてその「タツノコの遺伝子」は今も脈々と受け継がれている。

番組で紹介されたわけではないが「イデオン」などのキャラデザインで知られ、この年末公開の「宇宙戦艦ヤマト 復活編」では総作画監督を務める湖川友謙もタツノコの遺伝子を受け継ぐ一人だろう。タツノコに所属していた訳ではないが、若いころに数多くのタツノコ作品に参加しており、その作画の随所に吉田竜夫の影響が見てとれる。番組中で紹介された吉田のキャラデザインの絵柄は後の湖川の絵と共通点が多く、絵柄的には今でも最も「タツノコ色」を残す一人だと思う。OVA版ガッチャマンなどを手がけた梅津泰臣もタツノコ出身ではないながらも、その絵はタツノコの遺伝子を受け継いでいると言えるだろう。

初期のタツノコ作品は、そのほとんどが吉田竜夫のキャラデザインによるものだ。それが独特のタツノコカラーと呼ばれる作風につながったのは言うまでもない。僕は子供ながらにタツノコの作風が独特のものであることを感じ取っていた。東映動画や虫プロと同じくらい、あるいはそれ以上に「タツノコ」は特別な存在だったのだ。
そのタツノコプロはかつて、僕が通っていた大学のすぐ近くにあった。
番組中でも、そのタツノコのスタジオがあった場所を笹川が訪ねるシーンがあった。懐かしい駅も映っていた。僕は大学時代にその駅前で何度か笹川氏をみかけたことがあった。声をかけることも出来ず、ただ後ろ姿を見送っただけだったが。
雑木林の中に「←タツノコプロ」と書かれた看板が立っていたことを今も憶えている。なぜ、あんなにも近くにいながら僕は一度もタツノコを訪問しなかったのだろうか。そのことは今でも後悔している。
そのころ、吉田竜夫はすでにこの世にはいなかった。吉田竜夫は1977年に45歳という若さでこの世を去っていたのだ。僕がそのことを知ったのは、このブログで何度か紹介している雑誌「マンガ少年臨時増刊 TVアニメの世界」(1977年刊)に掲載された記事によってであった。ちょうどアニメにのめり込み始めた頃であり、僕にとっての「アニメの入門書」とも言えるこの本で僕は、小さい頃から何度も目にしていた「吉田竜夫」の顔を初めて知ったのだ。しかしそれが「訃報」であるというのは皮肉な感じがしたものだ。

僕は今日、45歳になった。吉田竜夫が亡くなったのと同じ年齢だ。
だけど僕は何も生み出すこともなく、誰かに影響を与えることもなく、ただひたすら人生の時間を浪費してきただけだ。その人生の密度の差に情けない思いを抱きつつ、今日からもまた楽な方、楽な方へと流されて生きて行くんだろうと思う。こんな僕でも少しは誰かの役に立ったり、誰かに影響を与えたり出来てたらいいのに、なんてムシのいいことを考えながら・・・。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧