ずっとアニメが好きだった

ずっとアニメが好きだった(7)

〜アニメージュとアニメーター〜
アニメージュの登場はアニメをより一般化することに貢献した。その一方でファンの目を、より深い・・・というのが適切かは分からないが、それまでとは違った存在にも向けさせた。その存在とは「アニメーター」である。アニメージュはたびたび制作スタッフの特集記事を組んでいた。中でもアニメーターは作品イメージとダイレクトに結びつく「絵」(=キャラ)を描いているため、演出や脚本などよりは理解と共感を得やすかったのだろう。人気俳優に憧れるがごとくキャラに憧れ、引いてはアニメーターに憧れるという流れが生まれたのだと思う。当時の人気作品との相乗効果もあってアニメーターはある意味アイドル的な存在になっていった。
アニメージュ創刊以前にもアニメファンはアニメーターたちに注目していたはずではあるが、こうした商業誌で取り上げられることになったことでより多くのファンにその存在が注目されるようになっていったと思う。少なくとも僕はそうだった。
アニメージュでは創刊号から「アニメ人物マップ」というコーナーで、アニメの制作現場に携わる人にインタビューした記事を載せている。その4回目に初めてアニメーターである荒木伸吾氏が登場する。それと連動して巻頭に「アニメーターオリジナルイラストシリーズ」というピンナップ企画をスタートさせている。その後、安彦良和ー金山明博ー小松原一男ー窪詔之ー羽根章悦の順で各氏がインタビューとピンナップに登場する。さらにその間、九里一平氏によるガッチャマンのイラストが2回、金山氏によるダイモスのイラストが一回、それぞれ描き下ろしで表紙を飾っている。
アニメージュが画期的だったのは、このように現役のアニメーターの描き下ろしイラストを積極的にピンナップや表紙に採用したことだ。アニメーターをアニメの作画以外でイラストレーターとして力を発揮する場を提供したのである。
果たして、彼らのイラストは圧倒的な迫力を持っていた。セル画で設定画でもない個性あふれるタッチで描かれたイラストは、アニメ作品を見るのとは違った楽しさがあり、そしてそれらの絵はアニメーターという名の絵描きの実力を示すのに十分なものだったのだ。彼らの秘めた力を見せつられた僕はアニメにおける「作画」というものに以前にも増して強く興味を持つようになる。そして上手い、下手という意識だけで観ていたものを「誰が描いたか」ということに意識が向くようになっていった。
アニメージュの記事によってアニメーターという存在がより具体的なものとして見えてくると、アニメを観る楽しみも増して行く。昔好きだったあのアニメにこの人が参加してたのか、あの作品とこの作品は絵が似てるように思ってたけど、やっぱり同じ人が描いてたのか・・・あの新作のキャラデザインはあの人か、じゃあ観て観ようか・・・などという具合に、どんどん興味が膨らんでいったのである。

Photo_2←荒木伸吾氏のオリジナルイラスト(姫野美智氏との合作。部分、1978年10月号)


当時、人気があったアニメーターといえばやはり「ダンガードA」を手がけていた荒木伸吾氏だろう。荒木氏の描くキャラは独特の美しさと色気があり、特にダンガードのトニー・ハーケンが美形キャラの代表格として女性に絶大な人気があった。1979年7月号では創刊1周年記念企画「アニメ人物INSIDE研究」の第1回として荒木氏が特集されたことからも当時の人気がうかがえる。そして「ダイモス」など長浜監督の“ロマンロボアニメ”シリーズの金山明博氏も「美形キャラ」の生みの親として人気があった。安彦良和氏も徐々に知名度が上がってはいたが、爆発的な人気を得るのは言うまでもなく「ガンダム」によってである。そして杉野昭夫氏も「家なき子」「宝島」劇場版「エースをねらえ!」など作品評価の高さとともに知名度を上げていった。

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←金山明博氏描き下ろしの表紙「闘将ダイモス」(1978年12月号)

思うに、アニメージュの記事によって僕と同じようにアニメーターやアニメの作画に興味を持つようになった人は多かっただろう。その後も作品人気とアニメージュでの記事などにより、ベテランから若手まで様々なアニメーターが人気者になってゆくのだ。そして、アニメージュ主催の「アニメグランプリ」にアニメーター部門が設けられるなどアニメーターが“人気商売”になると、徳間書店は姉妹誌「リュウ」で安彦良和氏に漫画(アリオン)を描かせたり「アニメーターが漫画を描く」ことを売りにした「モーションコミック」を創刊した。こんなのはアニメーターが“人気商売”でければなかったはずであった。しかし、こうしたアニメーター人気の裏で制作現場の過酷な労働環境は一向に改善されないままだった。おそらく多くのアニメーターたち(有名、無名に関わらず)は加熱するブームとのギャップに苦しんでいたのではないかと思う。そしてその労働環境は今も一向に変わっていないことを付け加えておく(そんな中で009やミンキーモモで知られる芦田豊雄さんらが発起人になりアニメ制作現場の環境改善を図るべく「日本アニメーター・演出協会(JANICA)」が発足し活動を行っている。興味のある方は→http://www.janica.jp/index.html へ)。
時代は流れ、アニメの技術もずいぶん進歩したし絵柄の流行もどんどん変わる。最近ではすっかり新作アニメを観なくなった僕だがときおり観るアニメなどに、この頃に観ていたアニメーターたちの影響と思しき絵柄をみることがたまにある。そういうときはなんだか少しうれしくなるのである。

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ずっとアニメが好きだった(その6)

〜アニメージュ創刊〜

ロマンアルバム「鉄腕アトム」に創刊の告知が掲載されてからおよそ1ヶ月半後の1978年5月26日、徳間書店から待望のアニメ情報誌「アニメージュ」が発売された。それまでもアニメ専門誌というものは存在していたが、コアなマニア向けであった。アニメージュはごく普通に書店の雑誌コーナーに並ぶようなものとしては初の専門誌であった。表紙は「宇宙戦艦ヤマト」。その夏に続編が公開予定であり前年からのヤマトブームはまだまだ続いており、この時代を象徴するものの代表格であった。

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←黒の背景にシルバーのヤマトがクールでカッコイイ!


巻頭の特集はそのヤマトの新作映画「さらば宇宙戦艦ヤマト」。映画の情報自体は少なく、海底ドックに眠るヤマトのイラストと彗星帝国のキャラとメカデザイン、そして新鋭艦「アンドロメダ(この号ではまだ名前は付いていない)」の設定ぐらいだ。ほかは1作目のおさらいと西崎Pのインタビューだった。インタビューの中で西崎Pはハワイでのスタッフたちの取材旅行中に観た、当時話題の「スター・ウォーズ」と「未知との遭遇」について「スター・ウォーズは単なる娯楽映画、恐るるに足らず。未知との遭遇はショックを受けた。ヤマトと同じ“宇宙愛”をテーマにしていたから」などと発言していた。それでも「ヤマト」への自信を覗かせるなどやはり西崎Pらしい内容だった。
続いて20ページに渡り「6月のテレビアニメガイド」がカラーとモノクロで構成されている。6月に放送予定の各エピソード紹介にスタッフや声優のインタビューなどもある。ちなみに当時放映中の主なアニメを挙げてみると・・・「ルパン三世(新)」「闘将ダイモス」「スタージンガー」「ハーロック」「新・巨人の星」「グランプリの鷹」「未来少年コナン」「ヤッターマン」「一休さん」「キャンディ・キャンディ」・・・などなど。ほかに「ドカベン」「一球さん」「野球狂の詩」と3本もの水島野球漫画が放映されていた。
巻中に「超人ロック」や「ダイモス」などのキャラ原案でも知られる聖悠紀氏のオリジナルコミック「黄金の戦士」を挟み、後半は「アンコールアニメ(1)=ホルスの大冒険」「声優24時=神谷明」「プロダクション訪問=東京ムービー」「スポットライト=水木一郎」「アニメ人物マップ=笹川ひろし」などの記事があり、その他にも「アニメ塾」や「アニメの歴史」「サークル紹介」などといった記事が続く。「アニメ塾」は“ラーメン大好き小池さん”こと鈴木伸一氏(現:杉並アニメーションミュージアム館長)とアニメ評論の第一人者おかだえみこ氏による文字通り「アニメの作り方講座」である。アニメの基礎から応用まで、丁寧なイラストと文章で解説している。
このように、アニメージュの柱はあくまでもテレビや映画など商業アニメの情報であるが、アートアニメや海外のアニメの情報もありかなり幅広いものであった。最新のアニメ情報のみならず、過去の作品やアニメ制作の現場・スタッフにもスポットを当てるなど、アニメそのものへの理解を深めるような企画を多く掲載していた。

ついに世に出たアニメージュは硬軟織り交ぜバラエティーに富んだ誌面でアニメファンの支持を得る。アニメージュはアニメファンの裾野を広げその後のアニメ界発展に大きな影響を与えたことは間違いないと思う。
個人的には「アニメーター」という職業がクローズアップされ、ある種のアイドル扱いされるようになったことはとても印象深い。
次回はその辺りのことに触れてみようと思う。

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ずっとアニメが好きだった(その5)

〜アニメージュ創刊前夜(2)〜

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1977年11月、ロマンアルバム(以下RA)第2弾「009」発行とほぼ時を同じくして1冊の本が朝日ソノラマから発行された。タイトルは「月刊マンガ少年臨時増刊 TVアニメの世界」。「マンガ少年」といえば大ヒット作「地球へ・・・」や「火の鳥」「サイボーグ009」などのメジャー作品のほか、みなもと太郎、永島慎二、高橋葉介らも描いておりマンガ誌としてはかなり玄人向けというかマニア向けの雑誌であった。その「増刊」というからにはこの「TVアニメの世界」のターゲットが自ずと分かろうというものだ。
ヤマトによって僕のアニメへの興味は観ることだけでなく作品作りの裏側やファン活動などの周辺へと広がった。この本と出会ったのはそんな頃だ。RAのような作品のムック本ではなくアニメ全般を扱ったこの「TVアニメの世界」は僕にとって「アニメの入門書」であった。
214ページにも及ぶこの本、主な内容は、巻頭カラーとセンターカラーで「ヤマト」とガッチャマン」のそれぞれ25話、81話のストーリーを合計28ページに渡り再現しているほか「読者が選んだテレビアニメベストテン」「テレビアニメ14年のあゆみ」「アニメスタジオ訪問記」「アフレコスタジオ訪問記」「ダンガードA」の声優らによる座談会・・・などである。「特集:サイボーグ009」として「Xの挑戦」のシナリオと009全話のストーリー紹介もある。さらにアニメーターを目指す少年が主人公の「鳥よ飛び立て」という描き下ろしマンガ、そして幻のアニメ専門誌「ファントーシュ」の復刊準備号なるものが巻末の12ページを占拠しているのだ。
中でも動画スタジオやアフレコスタジオの紹介は興味深いもので、「こういう世界に入れたらいいなぁ・・・」などという思いが漠然とだが芽ばえた。まだ将来のことなんてなにひとつ具体的に考えていない僕だったが、絵を描くということが大好きなアニメの世界へとつながるような気がしていたのだ。
僕の知的好奇心(?)はさらに勢いを増し、当時はまだアニメ専門ではなかった月刊「OUT」にも手を出し始める。この「OUT」についてはまた別の機会に書くつもりだが、何かに興味を持つことは知らず知らずのうちに自分の世界を広げていってくれるものなんだと今にして思う。最初は少しでもアニメの情報が欲しくて買った(最初に買ったのがスタジオぬえの特集号だった)のだが、自分の全く知らない世界であったサブカルを中心とした内容は、それはそれでかえってオトナの世界のように思えて魅力的だった。

RAはその後も順調に版を重ねる。
1977年末の「ロビン」の後、明けて1978年には「デビルマン」「タイガーマスク」「スーパージェッター」とほぼ月に1冊のペースで発売され、第7弾となる「鉄腕アトム」の巻末にいよいよそれは掲載される。
「アニメージュ」の発刊告知である。キャッチコピーは「ほとばしる青春のエネルギー いま、熱いまなざしをうけて5月26日発売!」とある。RA「アトム」の発売が4月13日であるから、そこからおよそ1ヶ月半がどれだけ待ち遠しかったことか。続く5月13日発売のRA「ライディーン」の表紙裏にカラーで発売広告が掲載された。
いよいよアニメージュの発売が迫ってきていた。
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←RA「鉄腕アトム」巻末のアニメージュ広告

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←RA「勇者ライディーン」表紙裏のアニメージュ広告

(追記)
同じ頃、僕が買った一冊のイラスト集がある。
ヤマトで興味を持った(実はそれまで知らなかったのだ)松本先生の画集「松本零士の世界」だ。その表紙には「イラストアルバム《アニメージュ》」とある。これがおそらく「アニメージュ」という言葉が世に出た最初だろう。巻末には「アニメージュ」(Animation-Image)と造語である旨説明があるが、なぜこのイラスト集にいきなりこうした名前が付けられたかは不明だ。その後徳間書店から刊行された「石森章太朗の世界」「永井豪の世界」なども同じように「イラストアルバム《アニメージュ》」と付けられてはいるのだが・・・。
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←松本零士の「士」の下に「アニメージュ」の文字が読める

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ずっとアニメが好きだった(その4)

〜アニメージュ創刊前夜(1)〜

ロマンアルバム(以下RA)「宇宙戦艦ヤマト」によって、それまで以上にアニメへの興味を膨らませた僕は「TVまんが」から卒業する機会を完全に失った。いや、そもそも「TVまんがもそろそろ卒業やな」なんて考えたことはただの一度もなかったのだが。
ヤマトのRAが発行された数ヶ月後には第2弾「サイボーグ009」が発行された(昭和52年11月30日発行とあるが雑誌の常として実際の発売はもっと早かったはず)。RA「ヤマト」には続刊の予告も何もなかったことを思えば、第2弾の発行はヤマトの成功があって初めてGOサインが出たのだと思われる。おそらく相当の手応えがあったのだろう、RA「009」の巻末にはヤマトの時とは打って変わって第3弾「レインボー戦隊ロビン」や「イラストアルバム 松本零士の世界」「イラストアルバム 石森章太郎の世界」などの告知がずらっと並び、さらに「アニメーション人気コンテスト」なる企画の告知まである。これは好きな作品とキャラを5人まで書いて応募するというものだ。結果発表がどういう形で行われたかは知らないが、おそらくマーケティング調査も兼ねていたのだと思う。その結果や反響が「アニメージュ」創刊への大きなステップであったことは想像に難くない。

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さてこのRA「009」もヤマトと同様、巻頭には描き下ろしのカラーグラビアがある。しかし、ヤマトと違い出来はかなりイイ。シンプルだがデッサンがしっかりしていて間違いなくプロのアニメーター、それもかなり実力のある人が描いたに違いない。原画が誰であるかの記述はないが、初代009の本編でも作画監督をやった木村圭一郎氏だと聞いたことがある(未確認)。今では考えられないことだが、この頃はまだアニメーターにスポットが当たることは少なかったのだ。とにもかくにもこのカラーグラビアは、009大好きな僕にも満足できる出来であり、またしても僕は模写をしまくった。

このRAでは原作者である石森章太郎先生へのインタビューや脚本の辻真崎先生の寄稿文、声優さんとプロデューサーの座談会なども掲載されてていてヤマトに比べるとかなりマニア向けの内容になっている。RA「ヤマト」の成功が早くも編集方針に反映された形だ。巻末近くには「アニメファンよ手をつなごう」と題した記事がある。記事といっても実はほとんど広告だ。それは「東映アニメーションファンクラブ」の会員募集の記事であった。なぜ東映動画のファンクラブの記事がロマンアルバムに掲載されているのかという疑問はさておき(理由はちゃんとあるのだが)、こういった記事が掲載されることからもターゲットが絞られていたことが伺える。この「東映アニメーションファンクラブ」には僕もその後入会することになるのだが、それはまた別の機会に触れることにしよう。
このRA「009」発行とほぼ時を同じくして1冊の本が朝日ソノラマから発行される。「月刊マンガ少年臨時増刊 TVアニメの世界」である。この本は完全にマニアにターゲットを絞った1冊であり、この本によって僕はまたさらに深くアニメに傾倒していくことになる。
(続く)

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この表紙の絵と同じポーズのジョーを音楽室の机に落描きしたことがあった。ある日音楽のセンセイに「009の絵を描いたのAKIRAくんでしょ?他のクラスの女の子がカッコイイ絵が描いてあるって教えてくれたの。残念だけど消しといてね」と言われたことがあった。わざわざ僕に言わずとも消そうと思えば消せるものを本人に消させるなんてかなり優しい人だ。この先生はリクエストするとヤマトの主題歌を弾いてくれたりするおちゃめでカワイイ人で僕はけっこう好きだった。

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ずっとアニメが好きだった(その3)

〜ロマンアルバム「宇宙戦艦ヤマト」(後編・長いです)〜

ターゲットを絞りきれていない感がありありと現れたヤマトのロマンアルバムだったが、その後のロマンアルバムのみならずアニメムックには欠かせなくなるものが掲載されていた、それが「設定資料集」である。人は物事の裏というものを知りたがるもの、そうした心理を刺激する記事であった。元々は一般のファンが目にすることはない製作過程の資料でしかないものにスポットを当て、世に出した功績は評価できると思う。だが商業誌においてこうした資料を載せることになったのはそもそもファンの力が大きいのだ。なぜなら当時、ヤマトファンが編集した同人誌や機関誌にはこうした設定資料がすでに掲載されていたからだ(後から知ったことだが)。つまり、ファンの作った物が商業誌に取り入れられたことになる。だからヤマトを支えているファン層とはそういう人たちであるということを編集部は理解していたはずである。しかし前編で書いたように商業誌のメインターゲットにするほどの確信は持てず、結果的に児童向けとコアなファン向けの内容がごっちゃになったような本になってしまったのではないかと思う。
そんなロマンアルバムではあっても、この設定資料でアニメ製作過程の一端を知り、僕の知的好奇心は大いに刺激された。何よりアニメが人の手で作られているという当たり前のことを認識させてくれたことがその後アニメへの興味を広げることにつながったことは間違いない。
 
そして、終盤の4ページ。この本全体の中ではおまけみたいな記事ではある。しかしこの終盤4ページもまた僕にとっては充分に刺激的であった。
全88ページ中の84・85ページ目に「8月6日上映ルポ 宇宙戦艦ヤマトが燃えた日」と題された記事がある。劇場版ヤマトが公開された当日の都内6館のレポートである。そこには徹夜で行列をするファンの姿があった。何時頃来たとかセル画をもらえたなど、ありきたりの内容に続きこんな一文があった。以下に抜粋しよう。

「銀座東急、8月5日深夜、徹夜組の輪の中から、甘い旋律(メロディ)が流れだす。
♪あの娘がふっていた 真っ赤なスカーフ 誰のためだと思っているか
およそ140人。ここへくるまでは、みんな知らない顔ばかりだった。それが、この「ヤマト」を通して、いま、たがいに手をにぎり、胸をよせあっている。熱い血潮をたぎらせながら、スターシャへの想いを語らいあう。「赤い(原文ママ)スカーフ」のハミングが、銀座の月を濡らすのだ。」

これは後にファンの一体感を高めた「イイ話」として伝わった出来事だ。

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←ロマンアルバム85ページに掲載された写真

明らかに当時の自分より歳上の、高校生から大学生と思しき若者たち・・・大行列をなし、ヤマトのセル画を誇らしげに掲げて写真に収まっている。僕にはモノクロ写真の中の彼らがまぶしかった。そして心からうらやましく、ねたましくもあり、そして憧れた。自分もその輪の中にいたかったと心からそう思い悔しかった。アニメファンにはこういう世界があり、自分より何歩も先を行く人たちがいるんだと知った。そしていつか自分もあの輪の中に入りたちと思った。
つづく86・87ページには、「熱狂!!ヤマトファン大集合」という、ヤマトのファン活動を扱った記事も掲載されている。メインの写真にはステージで熱唱するささきいさおさんと同じステージに立つ故宮川泰さんの姿。キャプションには「ささきいさおが投げた“真っ赤なスカーフ”に殺到するファン」とある。ファンイベントでのひとコマだ。記事の中身はヤマトのオフィシャルファンクラブが盛況であり、そのコアな層が中〜大学生であるといった内容だ。併せて、いくつかの同人誌も写真で紹介されていた。同人誌という「形」になったものは僕の目にかなり新鮮に映った。ここにもまた僕の知らない世界があった。絵を描くのが好きで、学級新聞やクラスの文集などの編集もした自分にとってはものすごく興味深かった。
ここで、行動力のある人ならロマンアルバムの編集部に問い合わせるなど、なんなりとアクションを起こすだろうが、小心者の僕はそういうことすらできなかった。けれど何かをしたい衝動は収まらず一人で何かを作ろうとしたらしく、このロマンアルバムの中身を構成し直すかのようなものをコクヨの計算用紙ほぼ一冊分に鉛筆で描きまくったのである。それは単なる絵と文章の模写でしかなく、なにひとつオリジナルな内容のないことに我ながら情けなくなるばかりであるが。ただ、60ページ以上にわたって絵を描きまくったエネルギーだけは若さのなせる技なのか、我ながらちょっと感心する。この後中学時代の僕はヒマさえあれば、ひたすら同じコクヨのノートにアニメや漫画の模写をしまくった。それがいくらかは絵の上達に役立ったことだけは確かだろう。
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←恥の一冊。

この終盤4ページは僕に、アニメには観るだけではない楽しみ方があることを教えてくれた。ヤマトのロマンアルバムが僕にとって最も重要だったのは、ある意味この終盤の4ページがあったからこそなのかもしれないとすら思う。
記念すべきロマンアルバム「宇宙戦艦ヤマト」。内容は、中途半端でトホホなものの好調な売れ行きを見せた。ロマンアルバムはその後シリーズ化され今も続いている。そしてその成功は初のメジャーアニメ誌「アニメージュ」の創刊へとつながっていき、その後のアニメブームを牽引してゆくのである。
僕自身が交流を求めて外の世界へ出て行くのはまだ少し先、高校へ進学してからの事だ。このころの僕はアニメにハマっていきつつも、まだまだ野球部の練習と学校生活の方が大事だった。

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ずっとアニメが好きだった(その2)

〜ロマンアルバム「宇宙戦艦ヤマト」(前編)〜

僕がアニメの世界にどっぷりハマるきっかけとなった「ヤマト」。それを後押ししたというか、決定的にしたのがヤマトの本格的なムック本として徳間書店が発行したロマンアルバムである。僕が持っているのは第2刷なので発売後スグに買ったわけではなかったようだ。
本の内容は、松本先生のイラストによるスターシャのピンナップ、カラーグラビア「Memories of Yamato」があり、以下「ヤマト航海日誌」「名セリフ集」「設定資料集」「全放映リスト」「ヤマト製作夜話(裏話みたいなもの)」と続く。終盤4ページに映画公開日のリポート、そしてファンの活動についての記事があり、最終ページには西崎Pのメッセージが掲載されている。
 スターシャのピンナップはサインに「1977」とあるから描き下ろしのようである。よく見る正面からのアレではなく肩越しに微笑みかける色っぽいカットだ。カラーグラビアは本編のスチール写真ではなく、なんとすべて描き下ろし・・・しかしながら絵がかなりトホホなのである。まあ分かりやすく言えば低年齢向けのアニメ絵本、しかも出来の悪い部類の・・・って感じの絵だ。これには参った。すでに絵の良し悪しを見分けるくらいには成長していたのでかなり脱力した。そもそも本編のカラー写真は表紙を除くと掲載されておらず、相当ガッカリした覚えがある。

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←トホホな古代と雪

実はこのロマンアルバムシリーズには当初「テレビランド増刊」という冠がついていた。つまり児童向けのテレビ雑誌の編集部が「アニメのムック本を作れと言われたもののどう作っていいのやら」というとまどいがこのカラーグラビアに現れているように思う。あるいはターゲットをマニアに絞って編集して、もしも売れなかったらヤバいので間違って子供が買っても大丈夫な内容にしたかのどちらかである、きっと。製作スタッフや声優さんのインタビューが全くないことからも、編集部は「そういうところ」に興味を持っているファンがいるということは知っていても、まだ雑誌のターゲットとして想定するには難しかったのだろう。
(後編へ続く)

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ずっとアニメが好きだった(その1)

〜オタク的行動の芽ばえ〜

僕は小さい頃から好きなモノがずっと変わっていない。その時々で多少興味の幅が広がったり狭まったりしてはいるが基本的に変わらない。野球とアニメと漫画。この3本柱である。興味の持ち方や関わり方、原体験という部分でアニメや漫画とリンクする部分が多い特撮がその次くらいに位置する。
このブログではことあるごとに好きなモノと自分との関わりについて触れることになると思うがそれぞれとの関わりについて「想い出語り」を主題にして不定期に書いてみようと思う。何回続けようとかまったく考えず、想い出尽きるまで語ってみたい。

前置きが長くなった。悪い癖である。本題に入ろう・・・今回はアニメについての第1回である。

「オタク」という言葉、個人的には好きではない。が、世間に認知されておりその特性も含め分かりやすい言葉なので敢えて使う。僕が「オタク」的な行動をとるきっかけになった作品、それは「宇宙戦艦ヤマト」である。僕と同世代のオタクたちにはそういう人が多いと思う。

前回、ラジオドラマ「宇宙戦艦ヤマト」について触れた。この番組が放送されたのは1977年の12月。同じ年の8月、TVシリーズの再編集を中心とした映画「宇宙戦艦ヤマト」が公開されブームを巻き起こした。ラジオドラマが企画されたのはすでにこうした実績あってのことである。僕ももちろん劇場へ足を運んだ。このときの私はすでに「ヤマトファン」であり、待ちに待ったこの映画は小学生の頃からヤマトに抱いていた熱い思いを満たしてくれるものであった。

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←映画版「宇宙戦艦ヤマト」のパンフ表紙と裏表紙。裏表紙は実際にはないシチュエーション(「青い地球」に帰還するヤマト)である。

最初のTVシリーズが放映されたのは1974年から75年にかけてのこと。前番組「侍ジャイアンツ」の大ファンだった僕は侍ジャイアンツが終了する頃に流れ始めた新番組の予告に釘付けになった。
「西暦2199年、人類は滅亡の危機にさらされていた・・・」
細かい部分は憶えていないが、おおむねこんなだったろう。そのナレーションと共に現れたヤマトの勇姿!元々軍艦好きでプラモをたくさん作っていたこともあり、戦艦が宇宙を飛ぶ、しかもそれが「大和」だというだけでワクワクした。また、前年に出版された「ノストラダムスの大予言」のブームもあり「人類滅亡」がキーワードになっていることが一層の興味を引いたのだった。
その第1話・・・期待に違わぬ出来であった、もう完全に魅了された。明らかにこれまで観たどのアニメとも違っていた。誰も見たこともなく経験したこともない宇宙空間での戦闘シーンがリアルに感じられ、地球に向かう遊星爆弾は「人類滅亡」を予感させる恐ろしさに満ちていた。僕は夢中になった。
しかし、視聴率が伸びず全26話を持って終了したのはあまりにも有名な話だ。ただ、ヤマトにとって幸いだったのはいわゆる「テコ入れ」を受けなかったことだろう。視聴率が伸びないからと言って子供向けに路線変更などをしなかったことがその後のヤマトの運命を良い方向に導いたと言っても良いと僕は思う。

その後しばらく僕は数少ないヤマト関連の出版物を、これまた少ないお小遣いで買い求め、ヤマトの絵を描きながら心の隙間を埋めていた。この時代は夕方になるとアニメが数多く再放送されており、ヤマトもほどなく再放送が始まる。関西での最初の再放送がいつだったか記憶にはないが、少なくとも僕が小学校を卒業する前だったはずだ。なぜなら、小5か小6の時に初めてラジカセを買ってもらった僕は再放送で全話をカセットテープに録音したからだ。それほどヤマトの再放送を待ちこがれていたのだ。
そして、ここに「オタク」の萌芽があったことに気づく。
ただ「好き」なのと「オタク」の違い。それはデータの収集や分析(大げさだが)をしたり、2次的な生産活動=絵を描いたり、模型を作ったり、サークル活動をしたりしながら繰り返し楽しむかどうか、だと思う。さらにそこにお金をかけることを惜しまないというのも大事な点だ。生まれ持った性格によるところが大きいと思うが、それを発現させるきっかけもまた重要だ。
僕にとってはそれがヤマトであった。
ヤマトを「好き」なだけでは飽きたらず「形になるモノ」を残したいと思った。当時考えることができた最高のモノが音を残すことだったのだ。録音のためTVのイヤフォンジャックからラジカセの入力端子につなぐケーブルも買った。そうすれば家族の話し声も雑音も気にしなくてすむ。僕はそこまでしてヤマトを残そうとしたのだ。充分に「オタク」的な行動であることに笑ってしまう。数年後、家にビデオデッキが来る(「来る」という表現が昭和的・・・)までカセットに録音するというのは基本的かつ重要な行動になった。

その後ヤマトはあっという間に、まさしくあっという間に社会現象になった。中学生になった僕はヤマトブームの洗礼を浴びた。自分で楽しむだけだったヤマトやアニメの世界が広がってゆくのを感じていた。ヤマトが映画化された背景には多くの(じぶんよりちょっとお兄さんやお姉さんの)ファンがいることを知った。そうした(自分も含めた)ファンの力が世の中を動かすこともあるんだと知った。そして何よりも「作っている人たち」を意識するようになった。それらを知るきっかけが映画公開後に出版された記念すべきロマンアルバム第1号「宇宙戦艦ヤマト」だった。翌年にはアニメ専門誌「アニメージュ」が創刊され、アニメブームは確実に広がりを見せていくのである。
その表紙もまた時代の象徴「ヤマト」であった。
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←ロマンアルバム「宇宙戦艦ヤマト」
設定資料というものの存在を知った1冊。

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ラジオドラマ 「宇宙戦艦ヤマト」

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先日所用があり、実家へ戻った。
実家には昔集めた数々のアニメ関係の雑誌、グッズなどが今も残っている。
その中には(録音用の)カセットテープもたくさんある。

家庭用ビデオがまだまだ高価だった時代、アニメの放送をカセットテープに録音しアニメ誌やムック本を見ながら聞いたものだ。それらカセットには自分では忘れてしまってたものもあったが、それらについてはまた別の機会に譲るとして今回のテーマは「ラジオドラマ 宇宙戦艦ヤマト」である。
「オールナイトニッポン」の特別番組として1977年の年末に生放送された伝説のラジオドラマだ。そのカセットを今回の帰省の際に持ち帰り、およそ30年ぶりに聴いてみた。カセットの交換(片面45分)のタイミングが悪くところどころ途切れていたりするが、おおむね全編入っていて安心した。

本編は古代進の航海日誌という形をとって進められている。「航海日誌」なのでヤマトでの出来事がすべて具体的な日付をもって語られている。これは当然後から加えられたモノなので、TV版に当てはめて観るのも面白そうだ。ストーリーはヤマトの出発前日の夜、古代のモノローグから始まり、テレビの第1話を回想にするなどラジオドラマ用に構成を変えている。映画版ではカットされた相原の心の病のエピソードがあったりデスラーとスターシャのホットラインの会話があったりでなかなかにファン心理を考えた構成になっている。
中でも面白かったのは、古代が艦長代理を命ぜられ有頂天になるところだ。これはTVでもなかったハズだが、古代は島と仲良く談笑する雪を用もないのに「こっちへ来い」と呼びつけるんである。島が「今は俺と話してる」と拒否すると「俺は艦長代理だ。命令だ」などと言って雪を自分の方へ来させようとする。職権乱用も甚だしいのだが18歳らしくてカワイイと言えば言えなくもない。オトナな島くんは「人は肩書きについてゆくんじゃない。その人間を信頼するからついてゆくものだ」なんてことを言って諭すのだが、古代がそんなことを聞き入れるわけもなく案の定ケンカになるのだ。
まあ、こんなエピソードもありつつもなかなかに楽しめるドラマであった。
ただ、駆け足でストーリーを進めざるを得ず、心理描写も含め説明が多くナレーターが大活躍だった。そのナレーターは先だって亡くなられた広川太一郎さんが務められていて、古代守のセリフとナレーションが立て続けなシーンもありさぞかし大変だったことが偲ばれる。
最後に出たがりPのN崎氏がコメントを読むのだが、これがなかなかの美声。コメント内容もいいことを言ってるのだが、その後の彼を知る者には・・・ムニャムニャ。
急きょ松本零士センセイもスタジオに来る(呼ばれたのか、自ら出しゃばったのかそういう下りは残っておらず不明)のですが、最初に読み上げられたスタッフの中に自分の名前がないことに憤慨しどおしで面白かった。「アンタ、文句言いにきたのかよ!?」ってみんな思ったに違いない。N崎Pとの確執はこの頃から??
声優さんへのインタビューなどもところどころあったのだが、それらは一部のみしか入っていなかった。本編以外はどうでもいいと思ってたのかな、当時の自分は。
本編でトチりまくった麻上洋子さんのインタビューがあったはずだが、ほとんど残っていなかったのが残念。

当時中1の私はカセットを買いラジカセにセットし、布団に潜り込んでこの放送を聴いた。
幸いにしてラジカセだけは自分専用のを買ってもらっていたので誰に遠慮することなく聴き、録音もできたのだ。
あのときのワクワク感は今でも憶えている。いや「ドキドキ」の方が近いか。
当時の自分はまだ、ラジオの深夜放送というものを聴く習慣はなく深夜1時(から放送終了の3時)まで起きていることなどまずなかった。
この「ラジオドラマ宇宙戦艦ヤマト」で、私は少しオトナの世界へ足を踏み入れた気がしていたのだ。

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