ずっとアニメが好きだった

2009年8月 1日 (土)

ずっとアニメが好きだった(18)

〜映画「銀河鉄道999」公開前夜〜

映画版「銀河鉄道999」は1979年8月4日に公開された。
その30年目の記念日を前に「999」公開前のことを少し書こうと思う。

当時の僕は中学3年生で、アニメの世界にどっぷり浸り始めていた。
過去にこのブログで何度も触れたので、今回は詳しく書かないが「宇宙戦艦ヤマト」を起爆剤としたアニメブームはこの1979年に最初のピークを迎えたと言っていいだろうと思う。そのヤマトのTVシリーズ監督であり、ビジュアルイメージを担ったのが漫画家・松本零士だ。ヤマトのヒットにより当時最も注目されるクリエーターの一人になっていた。僕もヤマトを通じて松本零士に興味を持ち、アニメ化される前から「キャプテン・ハーロック」や「銀河鉄道999」を読み始めていた。
そのハーロックと999は1978年の春と秋に立て続けにTVアニメの放映が開始され、同じ78年の夏には「さらば宇宙戦艦ヤマト」が劇場公開されていて、ちょっとした「松本アニメブーム」と呼べる状況にあった。
そんな中で映画版999が製作されたことはある種必然と言えることだったのかもしれない。ただし(これは後で知ったことだが)映画版999の企画はTVのヒットを受けたものではなくTVシリーズが始まったのとほぼ時を同じくして企画がスタートしていたらしい。その時からりんたろう監督や小松原一男作画監督などハーロックのスタッフでの製作もほぼ決まっていたとのことだ。

僕が映画版999の情報を知ったのは1979年3月のこと。当時入会したばかりの「東映アニメーションファンクラブ」の会員に届けられた「銀鉄NEWS」でだった。ただ、ここの記憶は少し曖昧だ。999の映画化情報自体は先にどこかで知っていて、その情報を得るために東映アニメのファンクラブに入ったような気もする。
いずれにせよ、映画版999のビジュアルイメージを初めて見たのは「銀鉄NEWS」で間違いない。アニメージュに映画版999の記事が掲載されたのは79年4月10日発売の号においてだったからだ。
その「銀鉄NEWS」に掲載された15歳の鉄郎は等身が伸びて、キリッとした表情をしていた。その予想外の設定には驚いたが、この1979年中に15歳になる僕は鉄郎は「同級生」だと思い、15歳という設定に対して共感を持った。たったそれだけのことが漫画版やTVアニメ版とは違う特別な思い入れを映画版999に持つきっかけになったのだ。
その後「銀鉄NEWS」は4号まで発行され、アニメージュ誌上では公開まで毎号詳細な情報が掲載された。徐々に明らかになるストーリーや各種設定、そして掲載されたフィルムの抑えた色使いと緻密な背景、キャラの表情などからは対象年齢の髙い大人向けの作品であることが伺えた。その写真は動くことはなくとも、一目でビジュアル的な完成度の高さが分かるものであり期待しないではいられなかった。ハーロックやエメラルダス(アニメに登場するのはこれが最初)が“出演する”ことも話題であり、より渋く格好良くリニューアルされたアルカディア号のデザインにも興奮した。
面白いことにこれだけ注目の作品にも関わらず、アニメージュでは最初の記事が出た5月号から映画公開の8月発売の9月号までの間、一度も999は表紙にはなっていない(ちなみに5月号からの表紙は順に「花形満」「島村ジョー」「トリトン」が2号連続、そして「アムロ・レイ」である)。

999の予告編を僕は少なくとも一度は劇場で観ているはずなのだが、いつ何の映画を観た時かは思い出せない(少なくともアニメ映画ではなかったと思う。何かのイベントだったかも知れない)。
この予告編ではまだキャストの一部は固まっておらず、ハーロックもエメラルダスもおなじみのお二人ではなかった。特にハーロックが井上さんじゃなかったので「おや?」と思った憶えがある。そうは思ったが、個人的にはこの予告編の声も悪くない印象だった(やや渋すぎる声だったが)。裏付けはないが、おそらくハーロックが徳丸完さん(ハーロックのTVシリーズで井上さんの代役を務めたことがある)でエメラルダスが北浜晴子さん(同じくハーロックのTVシリーズで女王ラフレシア役)ではないだろうか(北浜さんについてはかなり自信あり)。ナレーションは本編と同じ城達也氏で、これは予告編の時からぴったりハマっていた。

999が公開された1979年の夏休み。
僕は受験勉強の前にやるべきことがあった。野球である。
中学最後の大会に僕はレギュラーとして臨むことになっていた。
だけどチームそのものには大きな不安があり、自信満々で臨む大会というわけではなかった。それには、自分たちではどうしようもない理由があり、結果的に僕らは1回戦であえなく敗退することになるのだがそれは今回の本筋ではないので省く。
気分的にはすごく不完全燃焼で悔いが残る試合だった。

そして僕は高校受験のための夏期講習に通う夏休みを過ごすことになる。

映画版「銀河鉄道999」の公開はもうすぐそこに迫っていた。
あの夏の僕の楽しみは999だけだった。


News
「銀鉄NEWS」全4号分の表紙


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1979年6月1日の新聞広告

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2009年6月24日 (水)

ずっとアニメが好きだった(17)

赤毛のアン(3)〜アンの声優たち〜

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前回のアンの記事から随分と間が空いてしまったが、今回は締めくくりとしてアンに出演された素晴らしき声優陣について簡単に触れておきたい。

アンは日常的な会話を主体として物語が進む。ロボットアニメのような叫びもなければ魔女っ子もののように呪文をとなえたりもしない。その分当然、声優さんたちの芝居についても、より自然で高度なことが要求される。それは作画上も難しいものだったと思うが、同じように声だけで日常的な芝居をするというのはかなり大変だったに違いない。アンのムック本を読むと、アフレコ時にはほとんど絵がなく自分のセリフの間は線を見てしゃべっていたという(役柄によって線の色が分かれており、例えば「赤の線=アン」であれば、赤い線が画面に見えている間はアンの声優さんがセリフをしゃべる。絵の完成が間に合わない場合はよく行われていた方法。最近のアニメがどうなのかは知らない)。声優さんたちは絵コンテで事前に画面のイメージを説明されていたというが、それでいてあれほどに見事な芝居がよくできたものだと感心する。

アンの主なキャストをざっと紹介しておくと・・・
アン=山田栄子、マリラ=北原文枝、マシュウ=槐柳二、ダイアナ=高島雅羅といった面々がほぼレギュラーといえる人たちだ。マリラの親友、リンド夫人には大ベテランの麻生美代子、そしてアンの友人たちに、高木早苗、高坂真琴、堀絢子、青木和代、塩屋翼、井上和彦といった面々。アンの人生に大きく関わるステイシー先生に鈴木弘子、現代的な若い牧師に曽我部和行、ダイアナの母に武藤礼子、妹に小山まみ(現:茉美)、そしてナレーションに羽佐間道夫といった実力のある人たちが配されている。

僕にとってアンの声優陣で最も印象深いのがナレーションの羽佐間道夫とマリラ役の北原文枝である。
子供番組に男性ナレーションを起用するのは異例だったが、子供に読み聞かせるような「ですます調」ではないナレーションは、作品の対象年齢を上げ大人の鑑賞にも耐えうる格調高いものにしていた。アンのナレーションは極めて第三者的であり、アンやほかのキャラに寄ったものではなかった。つまり羽佐間のナレーションは高畑監督の分身であったのだと思う。高畑の演出姿勢が羽佐間のナレーションとして作品世界を表していたのだと僕は思っている。コメディー映画の吹き替えのイメージが強い羽佐間だが、落ち着いた品の良い淡々とした語り口はさすがであった。

アンのキャストはその誰もがほかに考えられないくらい見事にぴったりな人ばかりだったが、中でもマリラ役の北原文枝はもう絶対どんなことがあってもほかの人ではダメ!というくらいに素晴らしかった。
マリラというキャラは作中では最も複雑なキャラだ。保守的で頑固だが、責任感がありしっかり者で家事全般に長けている。オシャレとは縁遠いが清潔であることを大事にしている。アンに対して深い愛情を抱いていても、それを簡単に表すことはない。厳格にしつけをするが、融通が利かないほどでもない。そんなマリラの心情を場面場面に応じて演じ分ける北原さんの演技力はまさに「圧巻」のひと言である。そしてアンが成長するにつれて丸くやさしくなり、そして老いてゆくマリラの変化を実に自然に巧みに演じていた。小さくつぶやくようなセリフも、アンをどやしつける声も、諭すような話し方も、マリラという女性が実在したならきっとこんな風に話すのだろうと思えた。いや、マリラが実際に話していると思えるほどだった。
北原さんはアニメの出演経験がほとんどなかったらしい。そして、アンの録音現場では絵がほとんど完成していなかったことが良い方に作用したのではないかと思う。絵によるキャラへの先入観を持たず、また絵に合わせるというテクニックを考えずに芝居に集中できたことが、北原さんの良さを遺憾なく発揮する結果に繋がったのではないだろうか。

もちろん、この2人だけでなく全ての出演者が素晴らしかったことは言うまでもない。
アン役の山田栄子は初のアニメ作品にして主役という大役だった。僕は「なんて変わった声なんだろう」と思った憶えがある。決して美声ではなく、少し鼻にかかったような声で、しかし妙に印象に残る声でもあった。それまでに聴いてたどんな声優の声とも違っていて、それがまた個性的なアンののキャラデザインに妙にマッチしていて、あまり適切な言葉は浮かばないが、なんていうか「初めて観るタイプのアニメに出会った」ような不思議な感じだった。山田は決してこなれた感じではなかったが、その硬さが逆に物語当初のアンの不安な心境にマッチし、アンの成長と山田の声優としての成長がシンクロしていたように思う。
マシュウ役の槐(さいかち)柳二は、当時すでに50代ではあったがしわがれ声のため若いころから老人役が多かったという。おなじみとなったマシュウの「そうさのう・・・」という口癖にはその場面場面で微妙なニュアンスの違いがあり、槐はそれを実に見事に演じ分けていた。口数が少なく照れやのマシュウはセリフにならないセリフというか、息をのんだり言葉に詰まったりということも多く、その息遣い一つ一つが見事しか言いようがなかった。優しさと慈愛に満ち、しかし頑固な一面を持ったマシュウという人物を見事に演じきった槐さんが、あの「レレレのおじさん」だったというのを知ったときはビックリしたものだ。

アンの放送終了後1年も経たないころ、ショッキングなニュースがあった。それはマリラ役の北原文枝が急死したというニュースだった。自宅の窓をふさぐ木の枝を折ろうとして窓から落ちたという。「アン」での芝居が記憶に新しい時期だったので、本当にショックだった。
「アン」が始まったころ、僕は北原文枝という名前は知らなかった。だが、どこかで聴いた声だとは思っていたら、キャスティングを見た母が「奥様は魔女」でサマンサの母親である魔女の役をやっていたということを教えてくれた。ああ、なるほどあの声かと納得した。小さいころに親しんだ声の主が、今こうして大好きな作品に出演しているという、そのことだけで僕は北原さんに対して一気に親近感を持つようになっていたのだ。
亡くなられた当時、まだ60歳。「アン」の後にも、もっと多くの作品に出演されたであろう事を考えると本当に残念でならない。

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北原の急死は当時、新聞でも大きく取り上げられた(1980年10月5日付の読売新聞)。女優としての知名度が高かった証だろう。


「アン」について3回に渡って触れた。ちょっと書きすぎだとは思う。たまたま最近再見する機会があったためさらに印象が強かったためだろう。だけど、改めて観てやはり後世に残る名作であるという思いはますます強くなった。そこでちょっと当時のアニメージュを見返してみた。
「アン」が放送された1979年のアニメは名作揃いだということは再三書いているが、当時のアニメージュでは始めて「アニメ・グランプリ」として読者投票を行っている。1980年2月号で結果が発表されているのだが、「アン」は20位にも入っていないことに驚いた。1位の「ガンダム」と2位の「999(映画)」は当然としても、この名作が20位にも入っていないとは・・・当時のアニメージュの読者層の好みがいかに偏っていたかということになるのだろうか?
アニメージュも放映開始前後は、割と頻繁にアンを扱っていたが後半になると特集記事はほとんどなくなっていった。当時のアニメファンが飛びつきそうな話題が中心になっていたようだ。
ブームに乗っかるような作品ではなかったが、観た人の心に何かを残した作品だったことは確かだろう。

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2009年5月23日 (土)

ずっとアニメが好きだった(16)

〜赤毛のアン(2)〜

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今年、放送から30年を迎えたアニメ「赤毛のアン」。タイミング良くアニマックスで3月から放送が始まったので、久しぶりに通しで観てみようと決め平日の週5回の放送を録画しながら見始めた。飛び飛びで再放送を観たりしてはいたが、完全に通しで観るのは本放送以来だ。
で、改めてその面白さにハマった。
本当に面白い。30年前と同じか、それ以上に面白いと感じた。
面白い・・・?それとも「素晴らしい」・・・か?。
あまりにも面白かったので終盤近くになってDVDボックスを買ってしまったほどだ。そして終盤はDVDで観た。
面白く、そして本当に素晴らしかった。

アンの魅力とは一体なんだろう。
世界中で読まれ続けているという原作が素晴らしいことは言うまでもないのだろう(読んだことはないが)。アンという(小さい頃はちょっとイタい)少女の成長を描くだけでなく、愛する養父・マシュウとの死別や養母・マリラの老いなど現実的な事ともちゃんと向き合っているところは素晴らしいと思う。アニメは原作にかなり忠実に作られていると聞いたことはある。しかし、アニメとしてのアンが原作の魅力に頼り切っている作品でないことは原作を読んだことのない僕でも分かる。
会話が中心のこの物語を、淡々と、しかし視聴者を飽きさせることなく描くことが出来たのは紛れもなく高畑勲の手腕だろう。アニメ的にことさら大げさな芝居をすることもなく、「ハイジ」「三千里」で行ったような日常描写の積み重ねと風景描写をさらに突き詰めたような演出にはため息が出る。おそらく同じセリフ、同じ出来事であってもこれだけ見事な見せ方は高畑監督以外にはなしえないだろう。登場人物の表情や仕草、エピソードとエピソードの間をつなぐちょっとした風景や小道具の見せ方、そして絶妙なカットの間合いなど全てに隙がない。隙がないことがいやらしくないから心地いい。

この物語は不幸な生い立ちの孤児であるアンが、ちょっとした手違いから男の子を養子にしようとしていた老兄妹に引き取られることになり、この老兄妹の愛情を受け成長し幸せを手にしてゆく物語だ。そして、アンが幸せになることでアンの周りの人々、とりわけアンを引き取った老兄妹・マリラとマシュウが幸せを手にする物語だ。
アンの幸せ。
それは、自分を愛してくれる人(=自分が愛する人)がそばにいて、毎日が取り立てて不安もなく当たり前のように過ごせることだったはずだ。なんてことはないごく普通の日々の生活が輝いて見えること。それこそがアンの幸せであり、そのことを説明的なセリフとしてではなく描くことが出来なければこの作品は「凡庸な名作アニメ(=原作が面白いからそこそこ面白いだけのアニメ)」でしかなかったろう。
朝日が差し込む窓を開けて朝の空気を胸一杯に吸い込む幸せ、朝ご飯を家族と食べる幸せ、毎日学校に通える幸せ、友達とふざけあう幸せ、日々変化を見せる豊かな自然に囲まれている幸せ、帰る家があり待っている人のいる幸せ、暖炉の前で一日の出来事を語る幸せ、そして暖かいベッドで眠る幸せ・・・そんな日々のちょっとした出来事がアンにとっていかに美しく素晴らしいものであるか、そしてそんな思いを糧に日々成長してゆく少女を見守ることがどれだけ幸せなのか、ということを高畑演出は淡々と日常の描写を積み重ねることで、我々視聴者の心にじんわりと染み込ませてくれるのである。
この物語の根幹を成すものは「人の心」だ。それをことさら劇的におしつけがましく、また説教臭くも見せないのが高畑氏の演出姿勢であり、主人公寄りでもなければ視聴者寄りでもなく、つねに第三者の立場から客観的に物語を紡いでゆく。それはハイジや三千里でも、そしてアンでももちろん貫かれていた。だから観る人の年齢や立場、性別にによらず自分なりの物語への接し方が出きるわけだし、何年経とうが色褪せない作品として観ることが出来るのだ。

プリンスエドワード島の四季を見事に描いた美術の井岡雅弘氏、シーンによって色指定を変えるなど小山明子、保田道世両氏の細やかな色彩設計、落ち着いた格調高いBGMを作曲した毛利蔵人氏なども本当に素晴らしい仕事をされていたし、さらっと見ただけでは見落としがちだが、撮影もまた見事だった。が、しかし、作画が一番気になる僕としては、やはり故・近藤喜文氏について触れておきたい。

当時まだ29歳の近藤氏はアンで始めてキャラデザインと作画監督を担当した。前回の記事で書いたようにアンのデザインに関して、当初の僕の印象はあまり良いものではなかったし、番組当初は絵に硬さが見られたのも確かだ。しかし中盤にさしかかるあたりからは芝居にも柔らかさが出てきてキャラが生き生きと動いていた。何と言っても放送の1年間を通じ、主人公の年齢が徐々に上がってゆくというアニメーションではあまり例のない難しい作業を実に見事にこなしていた。容姿にコンプレックスを抱いているアンの姿がその幸せの度合いと比例するように、徐々に変化してゆく。身体と、そして何よりも心に十分な栄養が行き渡っているかのようにアンはかわいく、美しく成長する。その様子が自然で、いつの間にか気がつけば変わっていたという感じだった。そしてキツく融通の利かないおばさんだったマリラの目はやさしくなり、体つきもどこかふっくらとした暖かみを増し、そして同時に年老いてもゆく。アンの成長はかなり意図的なものだったろうと思うが、物語当初から初老のマリラの変化は自然なものだったように思える。それほどに最初のキャラ設定書を見ると別人としか思えないほどの変化なのだ。アンを育てることで自らの母性を目覚めさせ、アンを愛しやさしくなってゆくマリラに対し、近藤氏が感情移入した結果ではないかと僕には思えてならないのだ。
少々残念なのは、全編を通してぎくしゃくした(いわゆる枚数を使っていない)動きも散見されたことだった。おそらくはスケジュール的にかなり厳しかったのだろう。しかしながら、アニメーション的な作画の飛躍(非現実的なアクションや表情などといったもの)は皆無であり、ほとんどが細かい日常的な芝居を丁寧に丁寧に描いていた。アニメとしては最も難しい作業だ。しかもキャラデザイン的に見てもそれまでの名作劇場と比較してみると割とリアルな路線だったから相当難しかったはずだ。このアンでの経験が後の名作「火垂るの墓」に通じるのは間違いないだろう。この近藤氏が47歳という若さでこの世を去ったことは日本のアニメ界にとって本当に大きな損失だった。

そして、さらにこの作品で特筆すべきは声優陣の見事な演技だ。会話が主体の物語だけに演技の良し悪しは如実に表れるところだが、アンの出演者は実に見事であった。アンの話題をあと1回、この素晴らしき声優陣について触れておきたいと思う。
(続く)

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2009年4月13日 (月)

ずっとアニメが好きだった(15)

〜東映アニメーションファンクラブ〜

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「45871」
「東映アニメーションファンクラブ」での僕の会員番号だ。
1979年の3月だったと思う。僕は「東映アニメーションファンクラブ」に入会した。

当時の僕にとって「東映動画」は特別な響きのある制作会社だったが、東映動画(現東映アニメーション)作品の特別なファンというわけではなかった。では、なぜ「東映動画のファンクラブ」に入ろうと思ったか。そのあたりの記憶はかなりおぼろげだ。おそらくは「何かしたかった」のだろうと思う。アニメの魅力にとりつかれアニメの周辺には色々な世界が広がっていることを知り、自分も観るだけではなく何かをしたくなったのだと思う。そこでアニメ制作では最大手の東映動画の主催するファンクラブならその「何か」のきっかけになると思ったのだろう。
本当に何かしたいのなら、同人誌サークルに入会したり自分でサークルを立ち上げたり、イベントに出かけて友人を作るなりやりようがあったろうと今なら思うのだが、それが出来ないヘタレなところが僕という人間であり、今より100倍はヘタレだった中学生の僕にはこれが精一杯だったのだろう。それでも僕は一歩前へ進んだような気がして嬉しかったのだ。
入会費、年会費はなし(これは大きかったと思う)。東映直営映画館の入場割引、ファンクラブ主催イベントへの入場割引、販売商品(キャラクターグッズやアニメ用画材)の割引、東映アニメーションスタジオニュース(これは本来、ファンクラブ向けというわけではなかったようだ)の配布などが主な特典で、サークル(同人や学校のクラブなど)への支援や作品の貸し出しなども行っていた。僕は主に映画館の入場割引やグッズ購入での割引などで恩恵を受けていたが、後は毎月届くニュースを楽しみにしていた程度だった。
東映アニメーションファンクラブに入って良かったと思っていた一番のことは「銀鉄NEWS」だ。「銀鉄」とは言うまでもなく「銀河鉄道999」のことだが、ここでいう「銀鉄」は1979年に公開された映画版1作目のことだ。その情報が「銀鉄NEWS」という形でファンクラブ会員にはいち早く届いたのだ。映画版の情報が最初にアニメージュに掲載されたのが1979年5月号(4月10日発売)だが、僕はこの
「銀鉄NEWS」の創刊号でTVとは違うキャラデザインの鉄郎を3月に目にしていた。そして大人びた鉄郎の姿やハーロックも登場することに興奮し、ただならぬ期待をこの映画版999に抱くことになったのだ。この「銀鉄NEWS」は映画公開までに都合4号が発行されただけだが、僕にとっては大好きな999の情報をアニメ雑誌より早く手に入れられたという思い出深いものだ。その映画版999は期待に違わず素晴らしい作品で、僕にとって最も大切なアニメ作品のひとつとなったのだが、その話はまた別の機会に譲ろうと思う。

News01←「銀鉄NEWS」創刊号。りん監督や小松原作画監督らの談話、冒頭シーンの絵コンテなどが掲載されている。

Photo_2←こんな封筒で届いた

Photo_4←「Toei Animation Studio News」1980年1月1日号。この年公開される「地球へ・・・」が表紙


さて、この「東映アニメーションファンクラブ」、僕は脱会した憶えもなければ「閉会(っていうのか?)」しますという案内をもらった憶えもない。その後もカラー印刷の「ファンクラブニュース」は何号か届いているし「東映アニメーションスタジオニュース」は少なくとも1981年の2月1日号までは手元に残っている。だけども、それ以後のファンクラブと僕自身のつながりについて記憶が全くないのだ。
ただ、僕自身は1981年頃にはこのファンクラブへの興味はすでにかなり薄れていたことだけは確かだ。このころになるとアニメ好きの友人は増え、休日には誰かしらと会ったりアニメのイベントに出かけることが多くなっていた。それにアニメの世界について知識もついてくると、こういった大手よりも個性的な制作スタジオに魅力を感じ、「東映動画」がそれほど特別な存在ではなくなってしまっていた。更に、数々のアニメ雑誌でかなりの情報を得ることが可能になっており、いち制作会社のファンクラブ会員である意味もメリットもほとんど無くなっていた。
そんなだから「東映アニメーションファンクラブ」とのその後の関わりについて記憶がないのも当然と言えば当然なのだ。とは言っても、届いた会報などは捨てないのが僕の性格なので、それが残っていないということはどこかの時点で自ら脱会をしたか、会員が増えすぎて東映側が活動を停止したかのどちらかという気もする。
まあ、記憶などというモノはある部分は異様に鮮明かと思えばその反面いいかげんなものなんだとつくづく思い知るばかりだが・・・。

1979年頃のアニメファンは皆、情報に飢え、仲間に飢えていた。この「東映アニメーションファンクラブ」はそんな時代だったからこそ存在し得たものだったのだろうと思う。アニメとファンの関係がまだまだ牧歌的な時代だったのだ、あの頃は。

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2009年4月 7日 (火)

ずっとアニメが好きだった(14)

〜ガンダム30年〜

1979年4月7日、つまりちょうど30年前の今日、日本のアニメ史のみならず文化史においても重要かつ記念碑的作品である「機動戦士ガンダム」の放送が開始された。当時、ガンダムがこれほど長く支持され続け影響を与え続ける作品になることを想像できた人は唯の一人もいなかったろう。この作品は間違いなく日本のアニメのターニングポイントとなる作品だった。アニメブームのただ中にあって、そのブームをピークに押し上げ、アニメをブームではなくひとつの文化として定着させた作品だった。

実を言うと僕は第1話を1日早い4月6日に観ている。ちょっとコネがあり早く観る機会に恵まれた・・・わけではない。僕が住んでいた関西地方でガンダムは、「ザンボット3」以来の金曜夕方5時という枠で放送されていた。だから関西地方のアニメファンは全国にさきがけて1日早くガンダムを観ていたわけで、関西のファンにとって30周年の記念日は4月6日なのだ。しかし、公式的には4月7日が放送開始日なのでこの記事では今日が放送開始から30周年ということで書いている。

僕は本放送では全話を観ていない。
観たかったけれど観られなかった。当時の僕は中3で、野球部に所属していたため平日の放課後は必ず練習があり5時からの放送にはどうがんばっても間に合うわけはなかった。雨が降っても室内で練習があったのでガンダムを観られるのはテスト期間中で練習がないときだけだったのだ。家庭用ビデオはまだまだ高価であり、当然我が家にはなかった。
だが、幸いにして第1話を観ることは出来た。まだぎりぎり春休み中だったからだ。
この時の僕は後のハマり方からは想像がつかないほどガンダムに期待していたわけではなかったと思う。というのも、第1話の印象をあまりよく憶えていないのだ。後になってあちらこちらで、あの1話がいかに衝撃的だったか語られるのに僕はなぜか強い印象を持っていなかった。おそらく、あの第1話の凄さを認識できてなかったのだろうと思う。ハイレベルな内容についていけてなかったのだ。しかしながら「もう観ない」とも思わなかった。少なくとも面白そうだという印象は持っていたはずだ。
僕が次にガンダムを観ることができたのは第9話「翔べ!ガンダム」だった。舞台はいつの間にか地球に移っていた。ただでさえ難解なストーリーをすっ飛ばしていたにも関わらず、この第9話を僕は「録音」している。つまり久々に観るガンダムを楽しみにし、「記憶」に留めるための準備をし「記録」していたのだ。だからついていけてなくても「観たい」と思わせる作品であったことは確かだったのだ。
この第9話が2度目に観たガンダムだったことは幸運だった。なんせ、あの名台詞「オヤジにもぶたれたことないのに!」で知られるシリーズ前半屈指の名編である。アクション的な見せ場もあり、アムロの最初の転機となる重要なエピソードだ。何より作画が良い。特に、ふさぎ込むアムロとそれをなだめるフラウ、そしてアムロを殴りつけるブライトなどなど、安彦氏ならではの細やかな芝居が存分に発揮されている。録音していた僕は繰り返し繰り返しこの第9話を聴いた。ほとんどのセリフを憶えてしまうほどに。そしてこの9話によって僕は完全にガンダムの虜になってしまった。
その後も飛び飛びで観ることが多く、ほぼ続けて観ることができるようになったのは、中学最後の夏の大会が終わり野球部を退部した後で、アムロが脱走する辺りからだったと思う。それでも受験勉強や学校行事の関係でところどころ抜けてはいたが、その頃になるとガンダムはアニメ雑誌に欠かせないほどの話題を集め始めていたおかげで十分な情報によって足りない部分を補完しながら観ることが出来た。

放送開始からおよそ10ヶ月後の1980年1月26日(関西では25日)放送の第43話「脱出」でガンダムは最終回を迎えた。アニメファンの人気とは裏腹にガンダムは突然打ち切りという憂き目に遭ったのだ。
けれど、ガンダムは僕や当時のアニメファンに大きなものを残した。ガンダムの本当のブームは放送終了後にこそあったのだ。放送が終わってもガンダム人気は衰えることを知らず、再放送が行われ関連出版物が次々と刊行された。アニメ誌上で作品の分析が行われ、こぞって同人誌も作られた。そして、いつしか「映画化」という機運が盛り上がった。ファンの熱意と制作者の熱意、そしてそこに商機を見いだしたメディアや企業がそれを現実のものとした。それこそが今のアニメを取り巻くカルチャーの原点となっているものであり、ガンダムがアニメとファン、そして社会や経済との関係を決定づけたと言っても過言ではないだろう。
何より心地よかったのは、そのブームを自分たちが作っている、支えているという実感があったということだ。そのことはあの時代を体験した世代だけが共有できる大きな大きな財産だ。

僕にとってのガンダムは大好きな作品であるということ以上に、その後の僕自身の生活、いや、もっと言えば人生そのものに大きく影響を及ぼした作品だった。間違いなく。

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2009年3月21日 (土)

ずっとアニメが好きだった(13)

赤毛のアン(1)

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数々の名作アニメが誕生した1979年。そのトップを切った作品が「赤毛のアン」である。同年1月7日〜12月30日まで、日曜午後7時半のフジテレビ系列の看板だった「世界名作劇場」の枠で放送された文字通りの「名作」アニメだ(調べてみて、年の瀬の30日までレギュラー番組の放送があったことに軽く驚いた)。
放送は全50話。シリーズ演出は高畑勲でレイアウト(クレジットは「場面設定・画面構成」)に宮崎駿という「ハイジ」「三千里」の名コンビ、美術監督に井岡雅弘、キャラデザイン・作画監督に近藤喜文、脚本は高畑自身のほか映画監督でもある神山征二郎ら数人が手がけている。音楽は毛利蔵人。レイアウトは、宮崎駿が「ルパン三世 カリオストロの城」制作のため降板し、18話以降桜井美知代に交代した。
「ガンダム」開始直前の富野喜幸(当時)も絵コンテで数話に参加している。余談になるが、富野氏は「ハイジ」「三千里」でも絵コンテで参加、日常的な芝居に重きを置く高畑演出を間近で見ている。そのことが「ガンダム」という作品に与えた影響は決して小さくないはずだと、僕は思う。

僕は放送当時、全話を観た。なぜこの番組を観ようと思ったのかは憶えていない。原作を読んだこともなかった。演出が高畑勲だからでもレイアウトが宮崎駿だから、でもない。この当時の僕はまだアニメ初心者で、この両氏についての知識(「レイアウト」という仕事がなんであるかすら知らなかった)はほとんどなかったはずだ。なぜなら僕が最も頼りにしていた「アニメージュ」では、この両氏をフィーチャーした記事は少なくともアンの開始以前にはなかったのだから。世界名作劇場のファンというわけでもなかった。むしろこの枠の番組は「よい子」が観るものと避けていたくらいだ。だから余計に、なぜなのかがまったく想像すらできないのだ。
「アニメージュ」で「アン」の記事が出たのは1979年1月号(78年12月10日発売)だから、放送開始のおよそ1ヶ月前だ。この段階ではスタッフ名は単なる「情報」として記載してあるのみで「あのハイジのスタッフが」などというあおり文句すらない。キャラ紹介に至ってはアンの養母となるマリラとその友人のリンド婦人を逆に書いてある始末だ。掲載されたアンのキャラもお世辞にもかわいいとは言えない、暗い目をした痩せてそばかすだらけの女の子だったからキャラに惹かれたとも思えない。続く79年2月号で、ようやく高畑勲のインタビューが掲載されているが、この段階でも高畑氏は“いち演出家”扱いでしかない。そのインタビューの脇に、キャラデザインの近藤氏が描いたアンの初期設定ラフ画が掲載されている。こちらは表情は暗いものの、美少女だ。僕は当時「こっちの方が可愛くていいのに・・・」などと思っていた。そのことだけは憶えている。この2月号は第1話放送後に発売されている。だから第1話を観たあとにそういう感想を抱いたことになるわけだから、第1話を観ただけではまだ僕は「アン」の魅力に気づいてはいなかったのだろう(面白い、とは思った)。「なんや、このデコッパチは・・・」そう思いながら、淡々と進む初回を観ていたのだ。

しかし、すぐに僕はこの作品の虜になってしまうことになる。
アンと、アンを取り巻く人々との日常が美しく輝いて見えるまでそう時間はかからなかった。

(続く)

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2009年2月19日 (木)

ずっとアニメが好きだった(12)

〜アニメブームという熱・・・その2〜

“アニメブーム”とは一体何だったのか?

それは、“TVマンガ(マンガ映画)”が“アニメ”になったことだと僕は思う。それまで“TVマンガ”あるいは“マンガ映画”と呼ばれていたモノが“アニメ”というカタカナ言葉として世に認識され、映像のいちジャンル、あるいは若者文化として認知されたこと、それが“アニメブーム”だったのだと思う。
ただそれだけ??・・・のことではない。それはとても大きな出来事だったのだ。あの時代のあのブームがなければ、あるいはただのブームで終わったのではなかったからこそ今の日本のアニメの隆盛があるのは間違いない。ただの一過性ブームで終わらずに文化として定着したということは元々それだけの潜在的パワーを持ったジャンルであったということだ。それは決して恵まれているとは言えない環境の中にあっても、良い作品を生み出そうとするクリエーターたちの真摯な姿勢があったからである。アニメファンもまた「いい歳をしてアニメなんて・・・」という視線に対する反発みたいなものがあり自分たちの好きなアニメの力を信じ応援し続けていたからこそブームにもなったはずだ。ブームの引き金となたった「ヤマト」、あるいはブームをさらに一段高いところへ押し上げた「ガンダム」が、元はと言えばいずれも営業的に成功したモノではなかったということは象徴的な気がする。仕掛けられたものではなく「いつの間にかスゴいことになっていた」ということ、それは実はすごく重要なことだったのではないか。
70年代終盤の3年間を中学生として過ごした僕はアニメブームの洗礼をまともに浴びた。アニメブームは、当時の僕よりも少し年長の世代が中心になって引っ張っていた。だから大人の世界に足を踏み入れようとしていた僕にとって、その扉を開けてくれたのがこのアニメという新しい文化だったのだ。
小さい頃から大好きだった“TVマンガ”はとてもとても深い魅力のあるモノであることを知り、“アニメ”を観るのは発見の連続だった。あの頃の作品には本当に面白いものが多く飽きることがなかった。その当時観ていたアニメの面白さだけではなく子供の頃夢中だった作品の魅力も改めて知ることが出来た。

この70年代終盤はブームの名に恥じないほど僕らアニメファンの欲求に応える作品が次々と登場していたアニメの黄金期でもあった。特に78、79年は今もなお色褪せることのない数々の名作が生まれている。
有名な演出家の作品だけをざっと挙げてみても、宮崎駿は1978年に「未来少年コナン」79年に「ルパン三世 カリオストロの城」を、りん・たろうは1977年に「ジェッターマルス」「グランプリの鷹」78年には「キャプテンハーロック」79年には「銀河鉄道999(劇場版)」を、出﨑統は77年「家なき子」78年に「宝島」79年に「エースをねらえ(劇場版)」「ベルサイユのばら(19話以降)」を、富野喜幸(由悠季)は77年「ザンボット3」78年に「ダイターン3」79年には「ガンダム」を、長浜忠夫は77年「ボルテスV」78年「ダイモス」79年「ダルタニアス」「ベルばら(18話まで)」を、高畑勲は79年に「赤毛のアン」をそれぞれ制作・・・というように名だたる演出家が毎年のように新作を手がけている。今では考えられないくらい贅沢なラインナップだ。そしてこれらの作品には言うまでもなく大塚康夫や杉野昭夫、荒木伸吾、安彦良和などの作画監督、そして美術、撮影、音響などにも当然のごとく一流のスタッフが参加している。
彼らの多くはTVアニメの初期から活躍してきた。その才能が成熟しつつある時期とアニメブームとが重なった。この時期に名作が多く生まれた背景には制作現場での才能の開花とブームを支えたファンの相乗効果があったからだと僕は思う。良い作品を作ろうという作り手側の才能と情熱、そしてそれを受け止める事の出来る目の肥えたファンがいるという幸運がこの時期にはあったのだ。その目の肥えたアニメファンこそ、彼らの作品を物心ついた頃からそれとは意識せずに見続けてきた世代だ。TVアニメの歴史と共に育ってきたと言える世代がブームを支え、そのブームの高まりがより質の高い作品を求め、それが作り手にも伝わり次々と名作を生み出したと言えるのではないか。良い作品はさらに新しいファンを生み、ブームはどんどん高まっていく・・・言葉にするととても陳腐だが、とても熱い時代だったと思う。

僕はその熱に浮かされていた。とても心地よい熱だった。新しい何かが始まっているという思いとその渦の中に身を置き、存分にそれを楽しめた。
僕は、言わば“アニメブームど真ん中世代”だ(ずっと後に「オタク」という言葉が出来てからは「オタク第一世代」などとも呼ばれる)。多感な時期にこのブームを体験できたことは今でも本当に幸運だったと思う。時代の流れが大きくうねり、変わっていく瞬間を僕は間違いなく体験していた。そのことはいつまでも忘れることのない、大切な想い出だ。同じ体験をした人たちとは死ぬまであの頃の思い出話をするに違いない。
あんな時代はもう2度と来ないだろう。

以下追記。
上の記事は、前回の記事「009トークイベント」を書く前に準備していたものだ。
だから、そこでの芦田豊雄氏の話を聞いた後に読むと、自分の想い出だけを「イイもの」として書いているのがけっこうこっぱずかしい。あの頃のアニメブームの「負の遺産」のようなものがやはりある(「同人誌を作るようにアニメを作ってる」などの話)のだなと改めて思ったからだ。気づいていなかったわけではないが、現場の第一線で長年やってきた人の話だけに重みがあった。

・・・画像もなしでつまらん内容でした。すんません。

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2009年2月 8日 (日)

ずっとアニメが好きだった(11)

〜アニメブームという熱・・・その1〜

昨年のブログ開設以来、僕がアニメに興味を持ち始めたころの話を幾度となく書いている。その頃、1970年代終盤はアニメブームと言われ始めた頃だった。「アニメ」という言葉が普通に使え、通じ、そして市民権を得ている今の若い人たちには「アニメがブーム?」って訳が分からないだろう。そもそも「アニメ」という言葉が一般的になったのはこのアニメブームの頃からだ。

1977年に映画「宇宙戦艦ヤマト」が大ヒットした。映画公開前には「OUT」がヤマトを特集し大反響を呼んでいた。映画公開後に徳間書店からはロマンアルバム第1号「宇宙戦艦ヤマト」が発売され、同じ年の秋に朝日ソノラマからティーン以上のアニメファンをターゲットにした「マンガ少年別冊 TVアニメの世界」が出ている。ヤマトのヒットをきっかけに、世間では“アニメ”という言葉が飛び交い始めるようになる。そのヤマトを熱狂的に支持し、世に知らしめたのはティーンから大学生のアニメファンたちだ。若い高校生や大学生が、“子供の観るモノ”というのが常識の“TVマンガ”を支持していることが話題になり、それまで“TVマンガ”あるいは“マンガ映画”と呼ばれていたものは若者文化としての“アニメ”と呼ばれるようになった。そしてオトナになると“卒業”するものだったはずの“TVマンガ”はずっと見続けてもいいモノへと変貌を遂げた。ヤマト以前も、あるいはヤマトと同時期にもティーンを中心にアニメ作品に注目しファン活動をしていた人も多くいたが、ヤマトという作品の大ヒットが社会現象となり、それをきっかけとしてほかの作品やそれを取り巻くファンの存在が知られ始めていくことになる。そのことで僕のように「面白い作品はヤマトだけじゃないんだ」と知り他の作品にも興味を持ち、引いてはアニメそのものへの興味となっていった人も多かったハズだ。そうしてブームはより熱く高まっていったのだ。
1978年に公開された映画「さらば宇宙戦艦ヤマト」はアニメブームの熱をさらに高め、アニメの地位を一気に押し上げることとなる。そんな中、同年「アニメージュ」が創刊。ロマンアルバムを始め数々のアニメムックも発売され、アニメージュに追随するアニメ雑誌も次々に創刊された。キャラクターグッズ(子どものおもちゃなどではない)がアニメショップで人気を呼び、各地で声優やアニソン歌手のイベントやアニメの上映会などが開催された。ケータイもパソコンもインターネットもなかった時代だから、書籍は重要な情報源でありイベントは唯一の交流の場であった。そしてDVDどころか家庭用ビデオデッキすらあまり普及しておらず、上映会は大好きな作品を観る貴重な機会だった。だからこそ、集まるファンの熱気は凄かった。今では考えられないほどの不便さ故にファンの熱は逆に高かったのだろうと思う。だからこそ熱いブームに成り得たのだ。
このころはTVでもアニメを取り上げる番組が増え、声優やアニメ歌手が生出演することも珍しくなかった。朝の名物ワイドショーだった「小川宏ショー」に声優や歌手が大挙して出演した事もあったし、「サイボーグ009」の新作が79年に作られるときなどは2週に渡り「前夜祭」と称した番組が放送され9人の声を担当する声優さんが全員出演されていた。
こうしたブームが頂点に達したのは1979年、「機動戦士ガンダム」によってである。視聴率こそ伸びなかったもののガンダムはアニメファンのツボに見事にハマった作品だった。ガンダムはアニメファン人気の高まりとは裏腹に当初予定より10話分ほど短縮され打ち切りの憂き目に遭う。そのことが逆に熱を高める結果になり、後の映画3部作につながっていった。
グッズやイベントの展開、出版、ファン活動など、この1970年代終盤に起こった事のほとんどは今のアニメをめぐる状況の基礎になっている。同人誌即売会でコスプレが注目されたり、コミケが肥大化してゆくのもこの頃からだったろう。

(つづく)

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2008年12月15日 (月)

ずっとアニメが好きだった(10)

〜1978年のこと〜

もうすぐ2008年も終わる。
その前に、ちょうど30年前の1978年について少し総まとめ的に触れておこう。

1978年はこのブログで何度も話題にした「アニメージュ」が5月に創刊されている。それは前年の映画「宇宙戦艦ヤマト」の大ヒットによって巻き起こったアニメブームを背景にしてのことだ。ブームを決定的にした、あるいは牽引した作品はヤマトであるが、そもそもヤマトが映画化され公開されるということ自体がブームの証明でもあったのだ。つまりブームを象徴する作品がヤマトではあるが、すでにこの頃になると“アニメファン”という層を意識した作品が放送されるようになっていた。

1978年に放送が開始された主なTVアニメは「宇宙海賊キャプテン・ハーロック」「SF西遊記スタージンガー」「銀河鉄道999」「闘将ダイモス」「未来少年コナン」「野球狂の詩」「無敵鋼人ダイターン3」「科学忍者隊ガッチャマンII」「宝島」「宇宙戦艦ヤマト2」「新エースをねらえ!」「キャプテンフューチャー」などがある。
「ハーロック」「スタージンガー」「999」はヤマトで注目を浴びた松本零士原作のアニメだ。「999」は翌年に「ハーロック」のスタッフが中心となり映画化される。「ダイモス」は前作のボルテスVで「ロマン・ロボ・アニメ」路線を確立した長浜忠夫監督の作品。ラブストーリーを前面に押し出した“アニメ版ロミオとジュリエット”として人気を博した。「ダイターン3」は翌年の「ガンダム」で一躍脚光を浴びる富野喜幸が送り出した、今も根強い人気を誇る快作だ。ガッチャマンの続編やエースをねらえ!のリメイクはすでに一定のファンを獲得している作品であり、「エース」は翌年にTV1作目のスタッフ(言うまでもない出﨑・杉野コンビ。この78年には宝島をてがけている)によって映画化される。今や国民的映画監督となった宮崎駿のTVシリーズ初演出作品「未来少年コナン」もこの78年に放映されている。
他にもTVスペシャル「100万年地球の旅 バンダーブック」がこの年から始まった「愛は地球を救う」の中の一番組として放映された。これは手塚治虫が久しぶりに手がけるTVアニメであり、この後の数々の「TVスペシャルアニメ」を生むきっかけにもなった。
劇場アニメではなんといっても「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」だが、年末にはルパン三世の劇場アニメ第1作である、通称「マモー編」が公開されている(公開時のタイトルはただ単に「ルパン三世」だった)。

当時の“アニメブーム”的に見ると、王道をゆくのはやはり「ハーロック」「999」「ヤマト2」であり、すでに一定のファンと評価を得ていた長浜監督の「ダイモス」あたりだったろうと思う。ダイターン3は“知る人ぞ知る”的な作品であり、その面白さに注目してたのは“違いの分かる”ファンという感じだったし「コナン」に注目していたのは相当にアニメを“分かっている”人たちだったはずだ。コナンの視聴率がどうだったかは知らないが、作品的評価は高く宮崎は翌年ルパンの映画第2作を手がけることになる。
かくいう僕は、まったくもってブームに乗っかっているだけの典型であったのは言うまでもない。ダイターンもコナンもアニメージュなどで取り上げられるようになって初めて途中から観るようになったに過ぎなかった。かろうじて「宝島」の魅力には自分で気づき、結果的にはその「宝島」がこの年の最も印象深い作品となったのだが。

さて、ここまで総ざらえ的に1978年のアニメを振り返ってみたが、お気づきになっただろうか? 文中に「翌年」という言葉が多いことを。そう、翌1979年はアニメ史上特筆すべき“奇跡の年”となる。そして、その中心となる作品を生み出す多くの才能はすでにこの78年には結集していたのである。

アニメブームという心地よい熱に身を任せていた1979年。
2009年が明けたらじっくりとその1979年について語ろうと思う。

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2008年11月30日 (日)

ずっとアニメが好きだった(9)

〜宝島〜

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僕が今もなお愛してやまない作品「宝島」。放送開始は「さらば宇宙戦艦ヤマト」が公開されたのと同じ年、1978年の10月から。説明するまでもない、出﨑統・杉野昭夫の名コンビの手による名作中の名作だ。当時中2だった僕は夏に観た「さらばヤマト」の興奮冷めやらぬ状態で、この秋放送開始のアニメでもやはり「ヤマト2」と「999」ばかりに目がいき宝島はノーマークに等しかった(出﨑統も杉野昭夫もまだ知らなかったのである)。しかしある日の番宣スポットCMを目にしたことで興味を持ち、途中から観始めてあっという間にのめり込んでいった。わずか15秒のスポットCMですらその魅力は伝わってくるほどであったのだ。

そして、宝島はおそらく僕が最も大量の涙を流した作品でもある。途中から観たのにも関わらず、である。今も観る度に必ず同じシーンで、30年前と同じかあるいはそれ以上の涙を流してしまう。ほとんどが25話と最終回のシーンなのだが、今の方が少しはオトナで(当たり前か)、あの頃よりも少しは人生を知ったからこそ余計に泣けるのだろう。
僕はシルバーやグレーに憧れ、いつかはあんなカッコイイ男になりたいと思ったものだった。だけど、なりたいと思うだけでなろうとしたわけではなかった。いつもいつも楽な方に流され、戦うことを避け続けてきた。そしてつまらないオトナになった。

*************************

「シルバーにとって一番大切なものはなに?」

宝島からの帰途、海賊の親玉シルバーは囚われの身となり船倉に閉じこめられていた。シルバーに憧れ、信頼し、裏切られ、なのに憎みきれないでいるジム。彼はおとなしく捕まったままでいるシルバーに失望していた。
そんなシルバーにジムはコーヒーを差し入れ、シルバーにどうしても答えて欲しいことがあると、上のような質問をしたのだ。
シルバーは答えた。

「今はこの一杯のコーヒーさ」

「まじめに答えてよ」と怒るジム。
そのジムに対しシルバーは「まじめさジム・・・今日という日のこの瞬間はお前の入れてくれた一杯のコーヒーだよ・・・しかし明日になりゃ変わっちまうだろうな」と言い、そして続ける。

「俺にとって一番大切なものってのが俺自身まだわかんねぇんだ。それを探すためにこうして毎日を過ごしてる。フリントの宝探しに血道を上げたこの10年は楽しかった宝を見つけりゃ、その『何か』が分かるような気がしていた。けど、宝は宝以外のなにものでもなかった。俺の『何か』ではなかった」

そして遠くを見つめるようにつぶやく。

「あるよなぁ、ジム。どっかで俺が、俺の一番大切なものってやつに出会える時があるよなぁ・・・そうでなけりゃ、あんまりさみしすぎらぁ」

(第25話 「潮風よ、縁があったらまた逢おう」)
*************************

僕はもういい歳をしたオヤジだ。宝の地図だの海賊の財宝だのを信じるには歳を取りすぎたし、オートロックのマンションじゃビリー・ボーンズ(主人公ジムに宝島の地図を与えた男)も尋ねて来やしない。ポストに入っているのは宝の地図どころか、クレジットの請求かゴミ箱へ直行するチラシくらいのもの。そして明日もまた同じ道をたどり仕事に行き、疲れて帰ってくるだけだ。

「お前の大切なものは見つかったのか?」
シルバーの大きな瞳が僕に問いかける。

「ムリだよシルバー、あんたですら簡単には見つからなかったんだろ?」
僕は答える。

けれど僕もきっといつか自分の、自分にとっての一番大切なものに出会える日が来るんだと信じて生きている。ちっぽけな冒険すらない狭い国に閉じこもったままの人生だけれど、シルバーやグレーのようなカッコイイ男には程遠いけれど・・・。

「そうでなけりゃぁ、あんまりさみしずぎらぁ」

眠れぬ夜に僕はふとつぶやいてみた。
やっぱ僕じゃカッコつかないよ、シルバー・・・。


Ra

←ロマンアルバム。杉野氏の絵を同じ記事に掲載するとはイイ度胸だな、俺。

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2008年11月22日 (土)

ずっとアニメが好きだった(8)

〜さらば宇宙戦艦ヤマト公開〜

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↑当時の新聞広告

アニメージュ創刊と同じ1978年の夏、8月5日に全アニメファン待望の、宇宙戦艦ヤマトの続編にして完結編(になるはずだった)「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」が公開される。
“全アニメファン待望の”という表現は決して大げさではない。テレビ第1シリーズとその再編集による映画版の人気がアニメブームを巻き起こしていた。テレビではすでにアニメファンを意識した作品も多く放送されるようになっていた。けれども、アニメの面白さを(オタク的に)知ったばかりの僕や当時のアニメファンは「もっと多くの作品を観たい、もっとレベルの高い作品を観たい」という欲求がものすごく強かったのだと思う。ブームの熱に浮かされていたとも言えるのだろうけれど、それはとても心地いい熱だったのだ。
そんな時代だからこそ、ヤマトの続編は本当に誰もが待ちこがれた本命中の本命と言えた。それもオリジナルの劇場版新作となれば燃えないはずがなかった。

宇宙戦艦ヤマトのロマンアルバムに掲載された、映画第1作が公開されたときのファンが徹夜する様子に憧れたことは以前に書いた(ずっとアニメが好きだった(3)参照)。今度こそは徹夜行列に加わりたいと思ったものの、中学生の僕に親がそんなことを許すはずもなかった。涙をのんで公開初日の朝、始発のバスで僕は友人と2人映画館へ向かったのだった。当時、僕の実家から大阪の都心まではバスと電車を乗り継ぎ1時間半近くかかっていた。「もう映画館は一杯ちゃうやろか・・・」気ばかり焦るも、自分たちではどうしようもなく京阪淀屋橋駅を降りるやいなや御堂筋を北へ猛ダッシュで(野球部にいた僕らは体力だけはあったのだ)今は無き梅田の東映会館へ向かった。
映画館の前はすでに大行列だった。とにかく一刻も早く並ぼうと最後尾を目指すが、映画館の前の歩道から始まった列は角を曲がり映画館の裏手まで続いていた。ようやく列に並んだ僕らは立ち見を覚悟していたが、ヤマトの続編を見たいという気持ちが強く立ち見くらいのことはどうでもいいと思えたほどだった。
ようやく館内に入ったものの案の定劇場内はごった返しだった。とても座れそうにないと思いつつも2人で手分けして空いている席を探し回った。するとなんと奇跡的にぽっかりと2席並んで空いているではないか。しかも中段まん中から少し奥に入っただけの良い席だ。僕は持っていた鞄を放り投げて席を確保した(野球部なのでコントロールには自信があったのだ)。こんなに大勢の人が席を探しているのにそこだけ誰も気づかなかったなんてスゴイ。ヤマト愛の強い僕へのご褒美ではないかと思ったくらいだ。

並んで席を確保した僕らの気分が上々なのは言うまでもなく、あとは映画がはじまるのを待つばかりだった。
そしてついに待望の、本当に心から待ちこがれた「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」が始まった。もう気分はMAXハイ状態だった。前作で古代守を演じた故広川太一郎氏のナレーションで始まり、荘厳なパイプオルガンの曲をバックに繰り広げられる彗星帝国の脅威・・・そしてタイトルが出た瞬間、すでに僕の目は潤んでいた。そこにあのスキャットがかぶる。「ああ、ヤマトだ・・・これは間違いなくヤマトなんだ・・・」そんな思いで一杯になり涙が溢れそうだった。

それから後の事を書き始めると全ストーリーを紹介するハメになるのでやめておこう。
ヤマトの発進シーンで息をのんだり、デスラー登場シーンでどよめいたり、真田が死ぬ場面ですすり泣いたりしながら、皆がヤマトの世界にどっぷり浸りきっていた。クライマックスでは全ての人が泣いていたのではと思えるほどだった。
映画が終わるまでの2時間半はそれまでに感じたことのない幸福な時間だった。いや、それ以後もこれほどの幸福感はなかったように思う。それほどに劇場全体が一体感を持っていた。
それは公開初日の第1回目の上映だったからだと今でも思う。そこへ駆けつけるような人は間違いなく全てがヤマトファンであり、アニメファンだったはずだからだ。皆が皆、この瞬間を待ち望んでいた。誰よりも早く、少しでも早くヤマトに逢いたい。そんな多くの思いがもたらした時間だったのだと思う。
エンディングのジュリーの歌が終わった後、劇場は拍手に包まれた。誰からともなく自然と拍手がわき起こった。皆がこの映画に満足していた。
そしてヤマトとの別れを惜しんでいるかのようだった。

・・・そう、これが本当にヤマトとの別れであった方がどれほど良かったか。そうであればその後の僕らがヤマトに対してこれほど複雑な思いを抱かなくて済んだのにと今でも悔しい。
けれども、やはり「さらばヤマト」は永遠だ。30年前の夏、あの日あの時の胸の熱さは今でもはっきりと思い出せる。1978年8月5日「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」公開初日の第1回上映。その瞬間にしか味わえない感動を僕らは味わえた。そのことだけは真実だ。

そして僕の大好きなヤマトはあの時宇宙に散ったのだ。

Photo_3

Photo_2


映画パンフと前売り入場券

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2008年6月10日 (火)

ずっとアニメが好きだった(7)

〜アニメージュとアニメーター〜
アニメージュの登場はアニメをより一般化することに貢献した。その一方でファンの目を、より深い・・・というのが適切かは分からないが、それまでとは違った存在にも向けさせた。その存在とは「アニメーター」である。アニメージュはたびたび制作スタッフの特集記事を組んでいた。中でもアニメーターは作品イメージとダイレクトに結びつく「絵」(=キャラ)を描いているため、演出や脚本などよりは理解と共感を得やすかったのだろう。人気俳優に憧れるがごとくキャラに憧れ、引いてはアニメーターに憧れるという流れが生まれたのだと思う。当時の人気作品との相乗効果もあってアニメーターはある意味アイドル的な存在になっていった。
アニメージュ創刊以前にもアニメファンはアニメーターたちに注目していたはずではあるが、こうした商業誌で取り上げられることになったことでより多くのファンにその存在が注目されるようになっていったと思う。少なくとも僕はそうだった。
アニメージュでは創刊号から「アニメ人物マップ」というコーナーで、アニメの制作現場に携わる人にインタビューした記事を載せている。その4回目に初めてアニメーターである荒木伸吾氏が登場する。それと連動して巻頭に「アニメーターオリジナルイラストシリーズ」というピンナップ企画をスタートさせている。その後、安彦良和ー金山明博ー小松原一男ー窪詔之ー羽根章悦の順で各氏がインタビューとピンナップに登場する。さらにその間、九里一平氏によるガッチャマンのイラストが2回、金山氏によるダイモスのイラストが一回、それぞれ描き下ろしで表紙を飾っている。
アニメージュが画期的だったのは、このように現役のアニメーターの描き下ろしイラストを積極的にピンナップや表紙に採用したことだ。アニメーターをアニメの作画以外でイラストレーターとして力を発揮する場を提供したのである。
果たして、彼らのイラストは圧倒的な迫力を持っていた。セル画で設定画でもない個性あふれるタッチで描かれたイラストは、アニメ作品を見るのとは違った楽しさがあり、そしてそれらの絵はアニメーターという名の絵描きの実力を示すのに十分なものだったのだ。彼らの秘めた力を見せつられた僕はアニメにおける「作画」というものに以前にも増して強く興味を持つようになる。そして上手い、下手という意識だけで観ていたものを「誰が描いたか」ということに意識が向くようになっていった。
アニメージュの記事によってアニメーターという存在がより具体的なものとして見えてくると、アニメを観る楽しみも増して行く。昔好きだったあのアニメにこの人が参加してたのか、あの作品とこの作品は絵が似てるように思ってたけど、やっぱり同じ人が描いてたのか・・・あの新作のキャラデザインはあの人か、じゃあ観て観ようか・・・などという具合に、どんどん興味が膨らんでいったのである。

Photo_2←荒木伸吾氏のオリジナルイラスト(姫野美智氏との合作。部分、1978年10月号)


当時、人気があったアニメーターといえばやはり「ダンガードA」を手がけていた荒木伸吾氏だろう。荒木氏の描くキャラは独特の美しさと色気があり、特にダンガードのトニー・ハーケンが美形キャラの代表格として女性に絶大な人気があった。1979年7月号では創刊1周年記念企画「アニメ人物INSIDE研究」の第1回として荒木氏が特集されたことからも当時の人気がうかがえる。そして「ダイモス」など長浜監督の“ロマンロボアニメ”シリーズの金山明博氏も「美形キャラ」の生みの親として人気があった。安彦良和氏も徐々に知名度が上がってはいたが、爆発的な人気を得るのは言うまでもなく「ガンダム」によってである。そして杉野昭夫氏も「家なき子」「宝島」劇場版「エースをねらえ!」など作品評価の高さとともに知名度を上げていった。

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7812
←金山明博氏描き下ろしの表紙「闘将ダイモス」(1978年12月号)

思うに、アニメージュの記事によって僕と同じようにアニメーターやアニメの作画に興味を持つようになった人は多かっただろう。その後も作品人気とアニメージュでの記事などにより、ベテランから若手まで様々なアニメーターが人気者になってゆくのだ。そして、アニメージュ主催の「アニメグランプリ」にアニメーター部門が設けられるなどアニメーターが“人気商売”になると、徳間書店は姉妹誌「リュウ」で安彦良和氏に漫画(アリオン)を描かせたり「アニメーターが漫画を描く」ことを売りにした「モーションコミック」を創刊した。こんなのはアニメーターが“人気商売”でければなかったはずであった。しかし、こうしたアニメーター人気の裏で制作現場の過酷な労働環境は一向に改善されないままだった。おそらく多くのアニメーターたち(有名、無名に関わらず)は加熱するブームとのギャップに苦しんでいたのではないかと思う。そしてその労働環境は今も一向に変わっていないことを付け加えておく(そんな中で009やミンキーモモで知られる芦田豊雄さんらが発起人になりアニメ制作現場の環境改善を図るべく「日本アニメーター・演出協会(JANICA)」が発足し活動を行っている。興味のある方は→http://www.janica.jp/index.html へ)。
時代は流れ、アニメの技術もずいぶん進歩したし絵柄の流行もどんどん変わる。最近ではすっかり新作アニメを観なくなった僕だがときおり観るアニメなどに、この頃に観ていたアニメーターたちの影響と思しき絵柄をみることがたまにある。そういうときはなんだか少しうれしくなるのである。

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2008年6月 2日 (月)

ずっとアニメが好きだった(その6)

〜アニメージュ創刊〜

ロマンアルバム「鉄腕アトム」に創刊の告知が掲載されてからおよそ1ヶ月半後の1978年5月26日、徳間書店から待望のアニメ情報誌「アニメージュ」が発売された。それまでもアニメ専門誌というものは存在していたが、コアなマニア向けであった。アニメージュはごく普通に書店の雑誌コーナーに並ぶようなものとしては初の専門誌であった。表紙は「宇宙戦艦ヤマト」。その夏に続編が公開予定であり前年からのヤマトブームはまだまだ続いており、この時代を象徴するものの代表格であった。

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←黒の背景にシルバーのヤマトがクールでカッコイイ!


巻頭の特集はそのヤマトの新作映画「さらば宇宙戦艦ヤマト」。映画の情報自体は少なく、海底ドックに眠るヤマトのイラストと彗星帝国のキャラとメカデザイン、そして新鋭艦「アンドロメダ(この号ではまだ名前は付いていない)」の設定ぐらいだ。ほかは1作目のおさらいと西崎Pのインタビューだった。インタビューの中で西崎Pはハワイでのスタッフたちの取材旅行中に観た、当時話題の「スター・ウォーズ」と「未知との遭遇」について「スター・ウォーズは単なる娯楽映画、恐るるに足らず。未知との遭遇はショックを受けた。ヤマトと同じ“宇宙愛”をテーマにしていたから」などと発言していた。それでも「ヤマト」への自信を覗かせるなどやはり西崎Pらしい内容だった。
続いて20ページに渡り「6月のテレビアニメガイド」がカラーとモノクロで構成されている。6月に放送予定の各エピソード紹介にスタッフや声優のインタビューなどもある。ちなみに当時放映中の主なアニメを挙げてみると・・・「ルパン三世(新)」「闘将ダイモス」「スタージンガー」「ハーロック」「新・巨人の星」「グランプリの鷹」「未来少年コナン」「ヤッターマン」「一休さん」「キャンディ・キャンディ」・・・などなど。ほかに「ドカベン」「一球さん」「野球狂の詩」と3本もの水島野球漫画が放映されていた。
巻中に「超人ロック」や「ダイモス」などのキャラ原案でも知られる聖悠紀氏のオリジナルコミック「黄金の戦士」を挟み、後半は「アンコールアニメ(1)=ホルスの大冒険」「声優24時=神谷明」「プロダクション訪問=東京ムービー」「スポットライト=水木一郎」「アニメ人物マップ=笹川ひろし」などの記事があり、その他にも「アニメ塾」や「アニメの歴史」「サークル紹介」などといった記事が続く。「アニメ塾」は“ラーメン大好き小池さん”こと鈴木伸一氏(現:杉並アニメーションミュージアム館長)とアニメ評論の第一人者おかだえみこ氏による文字通り「アニメの作り方講座」である。アニメの基礎から応用まで、丁寧なイラストと文章で解説している。
このように、アニメージュの柱はあくまでもテレビや映画など商業アニメの情報であるが、アートアニメや海外のアニメの情報もありかなり幅広いものであった。最新のアニメ情報のみならず、過去の作品やアニメ制作の現場・スタッフにもスポットを当てるなど、アニメそのものへの理解を深めるような企画を多く掲載していた。

ついに世に出たアニメージュは硬軟織り交ぜバラエティーに富んだ誌面でアニメファンの支持を得る。アニメージュはアニメファンの裾野を広げその後のアニメ界発展に大きな影響を与えたことは間違いないと思う。
個人的には「アニメーター」という職業がクローズアップされ、ある種のアイドル扱いされるようになったことはとても印象深い。
次回はその辺りのことに触れてみようと思う。

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2008年5月18日 (日)

ずっとアニメが好きだった(その5)

〜アニメージュ創刊前夜(2)〜

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1977年11月、ロマンアルバム(以下RA)第2弾「009」発行とほぼ時を同じくして1冊の本が朝日ソノラマから発行された。タイトルは「月刊マンガ少年臨時増刊 TVアニメの世界」。「マンガ少年」といえば大ヒット作「地球へ・・・」や「火の鳥」「サイボーグ009」などのメジャー作品のほか、みなもと太郎、永島慎二、高橋葉介らも描いておりマンガ誌としてはかなり玄人向けというかマニア向けの雑誌であった。その「増刊」というからにはこの「TVアニメの世界」のターゲットが自ずと分かろうというものだ。
ヤマトによって僕のアニメへの興味は観ることだけでなく作品作りの裏側やファン活動などの周辺へと広がった。この本と出会ったのはそんな頃だ。RAのような作品のムック本ではなくアニメ全般を扱ったこの「TVアニメの世界」は僕にとって「アニメの入門書」であった。
214ページにも及ぶこの本、主な内容は、巻頭カラーとセンターカラーで「ヤマト」とガッチャマン」のそれぞれ25話、81話のストーリーを合計28ページに渡り再現しているほか「読者が選んだテレビアニメベストテン」「テレビアニメ14年のあゆみ」「アニメスタジオ訪問記」「アフレコスタジオ訪問記」「ダンガードA」の声優らによる座談会・・・などである。「特集:サイボーグ009」として「Xの挑戦」のシナリオと009全話のストーリー紹介もある。さらにアニメーターを目指す少年が主人公の「鳥よ飛び立て」という描き下ろしマンガ、そして幻のアニメ専門誌「ファントーシュ」の復刊準備号なるものが巻末の12ページを占拠しているのだ。
中でも動画スタジオやアフレコスタジオの紹介は興味深いもので、「こういう世界に入れたらいいなぁ・・・」などという思いが漠然とだが芽ばえた。まだ将来のことなんてなにひとつ具体的に考えていない僕だったが、絵を描くということが大好きなアニメの世界へとつながるような気がしていたのだ。
僕の知的好奇心(?)はさらに勢いを増し、当時はまだアニメ専門ではなかった月刊「OUT」にも手を出し始める。この「OUT」についてはまた別の機会に書くつもりだが、何かに興味を持つことは知らず知らずのうちに自分の世界を広げていってくれるものなんだと今にして思う。最初は少しでもアニメの情報が欲しくて買った(最初に買ったのがスタジオぬえの特集号だった)のだが、自分の全く知らない世界であったサブカルを中心とした内容は、それはそれでかえってオトナの世界のように思えて魅力的だった。

RAはその後も順調に版を重ねる。
1977年末の「ロビン」の後、明けて1978年には「デビルマン」「タイガーマスク」「スーパージェッター」とほぼ月に1冊のペースで発売され、第7弾となる「鉄腕アトム」の巻末にいよいよそれは掲載される。
「アニメージュ」の発刊告知である。キャッチコピーは「ほとばしる青春のエネルギー いま、熱いまなざしをうけて5月26日発売!」とある。RA「アトム」の発売が4月13日であるから、そこからおよそ1ヶ月半がどれだけ待ち遠しかったことか。続く5月13日発売のRA「ライディーン」の表紙裏にカラーで発売広告が掲載された。
いよいよアニメージュの発売が迫ってきていた。
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←RA「鉄腕アトム」巻末のアニメージュ広告

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←RA「勇者ライディーン」表紙裏のアニメージュ広告

(追記)
同じ頃、僕が買った一冊のイラスト集がある。
ヤマトで興味を持った(実はそれまで知らなかったのだ)松本先生の画集「松本零士の世界」だ。その表紙には「イラストアルバム《アニメージュ》」とある。これがおそらく「アニメージュ」という言葉が世に出た最初だろう。巻末には「アニメージュ」(Animation-Image)と造語である旨説明があるが、なぜこのイラスト集にいきなりこうした名前が付けられたかは不明だ。その後徳間書店から刊行された「石森章太朗の世界」「永井豪の世界」なども同じように「イラストアルバム《アニメージュ》」と付けられてはいるのだが・・・。
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←松本零士の「士」の下に「アニメージュ」の文字が読める

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2008年5月12日 (月)

ずっとアニメが好きだった(その4)

〜アニメージュ創刊前夜(1)〜

ロマンアルバム(以下RA)「宇宙戦艦ヤマト」によって、それまで以上にアニメへの興味を膨らませた僕は「TVまんが」から卒業する機会を完全に失った。いや、そもそも「TVまんがもそろそろ卒業やな」なんて考えたことはただの一度もなかったのだが。
ヤマトのRAが発行された数ヶ月後には第2弾「サイボーグ009」が発行された(昭和52年11月30日発行とあるが雑誌の常として実際の発売はもっと早かったはず)。RA「ヤマト」には続刊の予告も何もなかったことを思えば、第2弾の発行はヤマトの成功があって初めてGOサインが出たのだと思われる。おそらく相当の手応えがあったのだろう、RA「009」の巻末にはヤマトの時とは打って変わって第3弾「レインボー戦隊ロビン」や「イラストアルバム 松本零士の世界」「イラストアルバム 石森章太郎の世界」などの告知がずらっと並び、さらに「アニメーション人気コンテスト」なる企画の告知まである。これは好きな作品とキャラを5人まで書いて応募するというものだ。結果発表がどういう形で行われたかは知らないが、おそらくマーケティング調査も兼ねていたのだと思う。その結果や反響が「アニメージュ」創刊への大きなステップであったことは想像に難くない。

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さてこのRA「009」もヤマトと同様、巻頭には描き下ろしのカラーグラビアがある。しかし、ヤマトと違い出来はかなりイイ。シンプルだがデッサンがしっかりしていて間違いなくプロのアニメーター、それもかなり実力のある人が描いたに違いない。原画が誰であるかの記述はないが、初代009の本編でも作画監督をやった木村圭一郎氏だと聞いたことがある(未確認)。今では考えられないことだが、この頃はまだアニメーターにスポットが当たることは少なかったのだ。とにもかくにもこのカラーグラビアは、009大好きな僕にも満足できる出来であり、またしても僕は模写をしまくった。

このRAでは原作者である石森章太郎先生へのインタビューや脚本の辻真崎先生の寄稿文、声優さんとプロデューサーの座談会なども掲載されてていてヤマトに比べるとかなりマニア向けの内容になっている。RA「ヤマト」の成功が早くも編集方針に反映された形だ。巻末近くには「アニメファンよ手をつなごう」と題した記事がある。記事といっても実はほとんど広告だ。それは「東映アニメーションファンクラブ」の会員募集の記事であった。なぜ東映動画のファンクラブの記事がロマンアルバムに掲載されているのかという疑問はさておき(理由はちゃんとあるのだが)、こういった記事が掲載されることからもターゲットが絞られていたことが伺える。この「東映アニメーションファンクラブ」には僕もその後入会することになるのだが、それはまた別の機会に触れることにしよう。
このRA「009」発行とほぼ時を同じくして1冊の本が朝日ソノラマから発行される。「月刊マンガ少年臨時増刊 TVアニメの世界」である。この本は完全にマニアにターゲットを絞った1冊であり、この本によって僕はまたさらに深くアニメに傾倒していくことになる。
(続く)

Ra009


この表紙の絵と同じポーズのジョーを音楽室の机に落描きしたことがあった。ある日音楽のセンセイに「009の絵を描いたのAKIRAくんでしょ?他のクラスの女の子がカッコイイ絵が描いてあるって教えてくれたの。残念だけど消しといてね」と言われたことがあった。わざわざ僕に言わずとも消そうと思えば消せるものを本人に消させるなんてかなり優しい人だ。この先生はリクエストするとヤマトの主題歌を弾いてくれたりするおちゃめでカワイイ人で僕はけっこう好きだった。

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2008年4月26日 (土)

ずっとアニメが好きだった(その3)

〜ロマンアルバム「宇宙戦艦ヤマト」(後編・長いです)〜

ターゲットを絞りきれていない感がありありと現れたヤマトのロマンアルバムだったが、その後のロマンアルバムのみならずアニメムックには欠かせなくなるものが掲載されていた、それが「設定資料集」である。人は物事の裏というものを知りたがるもの、そうした心理を刺激する記事であった。元々は一般のファンが目にすることはない製作過程の資料でしかないものにスポットを当て、世に出した功績は評価できると思う。だが商業誌においてこうした資料を載せることになったのはそもそもファンの力が大きいのだ。なぜなら当時、ヤマトファンが編集した同人誌や機関誌にはこうした設定資料がすでに掲載されていたからだ(後から知ったことだが)。つまり、ファンの作った物が商業誌に取り入れられたことになる。だからヤマトを支えているファン層とはそういう人たちであるということを編集部は理解していたはずである。しかし前編で書いたように商業誌のメインターゲットにするほどの確信は持てず、結果的に児童向けとコアなファン向けの内容がごっちゃになったような本になってしまったのではないかと思う。
そんなロマンアルバムではあっても、この設定資料でアニメ製作過程の一端を知り、僕の知的好奇心は大いに刺激された。何よりアニメが人の手で作られているという当たり前のことを認識させてくれたことがその後アニメへの興味を広げることにつながったことは間違いない。
 
そして、終盤の4ページ。この本全体の中ではおまけみたいな記事ではある。しかしこの終盤4ページもまた僕にとっては充分に刺激的であった。
全88ページ中の84・85ページ目に「8月6日上映ルポ 宇宙戦艦ヤマトが燃えた日」と題された記事がある。劇場版ヤマトが公開された当日の都内6館のレポートである。そこには徹夜で行列をするファンの姿があった。何時頃来たとかセル画をもらえたなど、ありきたりの内容に続きこんな一文があった。以下に抜粋しよう。

「銀座東急、8月5日深夜、徹夜組の輪の中から、甘い旋律(メロディ)が流れだす。
♪あの娘がふっていた 真っ赤なスカーフ 誰のためだと思っているか
およそ140人。ここへくるまでは、みんな知らない顔ばかりだった。それが、この「ヤマト」を通して、いま、たがいに手をにぎり、胸をよせあっている。熱い血潮をたぎらせながら、スターシャへの想いを語らいあう。「赤い(原文ママ)スカーフ」のハミングが、銀座の月を濡らすのだ。」

これは後にファンの一体感を高めた「イイ話」として伝わった出来事だ。

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←ロマンアルバム85ページに掲載された写真

明らかに当時の自分より歳上の、高校生から大学生と思しき若者たち・・・大行列をなし、ヤマトのセル画を誇らしげに掲げて写真に収まっている。僕にはモノクロ写真の中の彼らがまぶしかった。そして心からうらやましく、ねたましくもあり、そして憧れた。自分もその輪の中にいたかったと心からそう思い悔しかった。アニメファンにはこういう世界があり、自分より何歩も先を行く人たちがいるんだと知った。そしていつか自分もあの輪の中に入りたちと思った。
つづく86・87ページには、「熱狂!!ヤマトファン大集合」という、ヤマトのファン活動を扱った記事も掲載されている。メインの写真にはステージで熱唱するささきいさおさんと同じステージに立つ故宮川泰さんの姿。キャプションには「ささきいさおが投げた“真っ赤なスカーフ”に殺到するファン」とある。ファンイベントでのひとコマだ。記事の中身はヤマトのオフィシャルファンクラブが盛況であり、そのコアな層が中〜大学生であるといった内容だ。併せて、いくつかの同人誌も写真で紹介されていた。同人誌という「形」になったものは僕の目にかなり新鮮に映った。ここにもまた僕の知らない世界があった。絵を描くのが好きで、学級新聞やクラスの文集などの編集もした自分にとってはものすごく興味深かった。
ここで、行動力のある人ならロマンアルバムの編集部に問い合わせるなど、なんなりとアクションを起こすだろうが、小心者の僕はそういうことすらできなかった。けれど何かをしたい衝動は収まらず一人で何かを作ろうとしたらしく、このロマンアルバムの中身を構成し直すかのようなものをコクヨの計算用紙ほぼ一冊分に鉛筆で描きまくったのである。それは単なる絵と文章の模写でしかなく、なにひとつオリジナルな内容のないことに我ながら情けなくなるばかりであるが。ただ、60ページ以上にわたって絵を描きまくったエネルギーだけは若さのなせる技なのか、我ながらちょっと感心する。この後中学時代の僕はヒマさえあれば、ひたすら同じコクヨのノートにアニメや漫画の模写をしまくった。それがいくらかは絵の上達に役立ったことだけは確かだろう。
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←恥の一冊。

この終盤4ページは僕に、アニメには観るだけではない楽しみ方があることを教えてくれた。ヤマトのロマンアルバムが僕にとって最も重要だったのは、ある意味この終盤の4ページがあったからこそなのかもしれないとすら思う。
記念すべきロマンアルバム「宇宙戦艦ヤマト」。内容は、中途半端でトホホなものの好調な売れ行きを見せた。ロマンアルバムはその後シリーズ化され今も続いている。そしてその成功は初のメジャーアニメ誌「アニメージュ」の創刊へとつながっていき、その後のアニメブームを牽引してゆくのである。
僕自身が交流を求めて外の世界へ出て行くのはまだ少し先、高校へ進学してからの事だ。このころの僕はアニメにハマっていきつつも、まだまだ野球部の練習と学校生活の方が大事だった。

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2008年4月24日 (木)

ずっとアニメが好きだった(その2)

〜ロマンアルバム「宇宙戦艦ヤマト」(前編)〜

僕がアニメの世界にどっぷりハマるきっかけとなった「ヤマト」。それを後押ししたというか、決定的にしたのがヤマトの本格的なムック本として徳間書店が発行したロマンアルバムである。僕が持っているのは第2刷なので発売後スグに買ったわけではなかったようだ。
本の内容は、松本先生のイラストによるスターシャのピンナップ、カラーグラビア「Memories of Yamato」があり、以下「ヤマト航海日誌」「名セリフ集」「設定資料集」「全放映リスト」「ヤマト製作夜話(裏話みたいなもの)」と続く。終盤4ページに映画公開日のリポート、そしてファンの活動についての記事があり、最終ページには西崎Pのメッセージが掲載されている。
 スターシャのピンナップはサインに「1977」とあるから描き下ろしのようである。よく見る正面からのアレではなく肩越しに微笑みかける色っぽいカットだ。カラーグラビアは本編のスチール写真ではなく、なんとすべて描き下ろし・・・しかしながら絵がかなりトホホなのである。まあ分かりやすく言えば低年齢向けのアニメ絵本、しかも出来の悪い部類の・・・って感じの絵だ。これには参った。すでに絵の良し悪しを見分けるくらいには成長していたのでかなり脱力した。そもそも本編のカラー写真は表紙を除くと掲載されておらず、相当ガッカリした覚えがある。

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←トホホな古代と雪

実はこのロマンアルバムシリーズには当初「テレビランド増刊」という冠がついていた。つまり児童向けのテレビ雑誌の編集部が「アニメのムック本を作れと言われたもののどう作っていいのやら」というとまどいがこのカラーグラビアに現れているように思う。あるいはターゲットをマニアに絞って編集して、もしも売れなかったらヤバいので間違って子供が買っても大丈夫な内容にしたかのどちらかである、きっと。製作スタッフや声優さんのインタビューが全くないことからも、編集部は「そういうところ」に興味を持っているファンがいるということは知っていても、まだ雑誌のターゲットとして想定するには難しかったのだろう。
(後編へ続く)

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2008年4月20日 (日)

ずっとアニメが好きだった(その1)

〜オタク的行動の芽ばえ〜

僕は小さい頃から好きなモノがずっと変わっていない。その時々で多少興味の幅が広がったり狭まったりしてはいるが基本的に変わらない。野球とアニメと漫画。この3本柱である。興味の持ち方や関わり方、原体験という部分でアニメや漫画とリンクする部分が多い特撮がその次くらいに位置する。
このブログではことあるごとに好きなモノと自分との関わりについて触れることになると思うがそれぞれとの関わりについて「想い出語り」を主題にして不定期に書いてみようと思う。何回続けようとかまったく考えず、想い出尽きるまで語ってみたい。

前置きが長くなった。悪い癖である。本題に入ろう・・・今回はアニメについての第1回である。

「オタク」という言葉、個人的には好きではない。が、世間に認知されておりその特性も含め分かりやすい言葉なので敢えて使う。僕が「オタク」的な行動をとるきっかけになった作品、それは「宇宙戦艦ヤマト」である。僕と同世代のオタクたちにはそういう人が多いと思う。

前回、ラジオドラマ「宇宙戦艦ヤマト」について触れた。この番組が放送されたのは1977年の12月。同じ年の8月、TVシリーズの再編集を中心とした映画「宇宙戦艦ヤマト」が公開されブームを巻き起こした。ラジオドラマが企画されたのはすでにこうした実績あってのことである。僕ももちろん劇場へ足を運んだ。このときの私はすでに「ヤマトファン」であり、待ちに待ったこの映画は小学生の頃からヤマトに抱いていた熱い思いを満たしてくれるものであった。

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←映画版「宇宙戦艦ヤマト」のパンフ表紙と裏表紙。裏表紙は実際にはないシチュエーション(「青い地球」に帰還するヤマト)である。

最初のTVシリーズが放映されたのは1974年から75年にかけてのこと。前番組「侍ジャイアンツ」の大ファンだった僕は侍ジャイアンツが終了する頃に流れ始めた新番組の予告に釘付けになった。
「西暦2199年、人類は滅亡の危機にさらされていた・・・」
細かい部分は憶えていないが、おおむねこんなだったろう。そのナレーションと共に現れたヤマトの勇姿!元々軍艦好きでプラモをたくさん作っていたこともあり、戦艦が宇宙を飛ぶ、しかもそれが「大和」だというだけでワクワクした。また、前年に出版された「ノストラダムスの大予言」のブームもあり「人類滅亡」がキーワードになっていることが一層の興味を引いたのだった。
その第1話・・・期待に違わぬ出来であった、もう完全に魅了された。明らかにこれまで観たどのアニメとも違っていた。誰も見たこともなく経験したこともない宇宙空間での戦闘シーンがリアルに感じられ、地球に向かう遊星爆弾は「人類滅亡」を予感させる恐ろしさに満ちていた。僕は夢中になった。
しかし、視聴率が伸びず全26話を持って終了したのはあまりにも有名な話だ。ただ、ヤマトにとって幸いだったのはいわゆる「テコ入れ」を受けなかったことだろう。視聴率が伸びないからと言って子供向けに路線変更などをしなかったことがその後のヤマトの運命を良い方向に導いたと言っても良いと僕は思う。

その後しばらく僕は数少ないヤマト関連の出版物を、これまた少ないお小遣いで買い求め、ヤマトの絵を描きながら心の隙間を埋めていた。この時代は夕方になるとアニメが数多く再放送されており、ヤマトもほどなく再放送が始まる。関西での最初の再放送がいつだったか記憶にはないが、少なくとも僕が小学校を卒業する前だったはずだ。なぜなら、小5か小6の時に初めてラジカセを買ってもらった僕は再放送で全話をカセットテープに録音したからだ。それほどヤマトの再放送を待ちこがれていたのだ。
そして、ここに「オタク」の萌芽があったことに気づく。
ただ「好き」なのと「オタク」の違い。それはデータの収集や分析(大げさだが)をしたり、2次的な生産活動=絵を描いたり、模型を作ったり、サークル活動をしたりしながら繰り返し楽しむかどうか、だと思う。さらにそこにお金をかけることを惜しまないというのも大事な点だ。生まれ持った性格によるところが大きいと思うが、それを発現させるきっかけもまた重要だ。
僕にとってはそれがヤマトであった。
ヤマトを「好き」なだけでは飽きたらず「形になるモノ」を残したいと思った。当時考えることができた最高のモノが音を残すことだったのだ。録音のためTVのイヤフォンジャックからラジカセの入力端子につなぐケーブルも買った。そうすれば家族の話し声も雑音も気にしなくてすむ。僕はそこまでしてヤマトを残そうとしたのだ。充分に「オタク」的な行動であることに笑ってしまう。数年後、家にビデオデッキが来る(「来る」という表現が昭和的・・・)までカセットに録音するというのは基本的かつ重要な行動になった。

その後ヤマトはあっという間に、まさしくあっという間に社会現象になった。中学生になった僕はヤマトブームの洗礼を浴びた。自分で楽しむだけだったヤマトやアニメの世界が広がってゆくのを感じていた。ヤマトが映画化された背景には多くの(じぶんよりちょっとお兄さんやお姉さんの)ファンがいることを知った。そうした(自分も含めた)ファンの力が世の中を動かすこともあるんだと知った。そして何よりも「作っている人たち」を意識するようになった。それらを知るきっかけが映画公開後に出版された記念すべきロマンアルバム第1号「宇宙戦艦ヤマト」だった。翌年にはアニメ専門誌「アニメージュ」が創刊され、アニメブームは確実に広がりを見せていくのである。
その表紙もまた時代の象徴「ヤマト」であった。
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←ロマンアルバム「宇宙戦艦ヤマト」
設定資料というものの存在を知った1冊。

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2008年4月18日 (金)

ラジオドラマ 「宇宙戦艦ヤマト」

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先日所用があり、実家へ戻った。
実家には昔集めた数々のアニメ関係の雑誌、グッズなどが今も残っている。
その中には(録音用の)カセットテープもたくさんある。

家庭用ビデオがまだまだ高価だった時代、アニメの放送をカセットテープに録音しアニメ誌やムック本を見ながら聞いたものだ。それらカセットには自分では忘れてしまってたものもあったが、それらについてはまた別の機会に譲るとして今回のテーマは「ラジオドラマ 宇宙戦艦ヤマト」である。
「オールナイトニッポン」の特別番組として1977年の年末に生放送された伝説のラジオドラマだ。そのカセットを今回の帰省の際に持ち帰り、およそ30年ぶりに聴いてみた。カセットの交換(片面45分)のタイミングが悪くところどころ途切れていたりするが、おおむね全編入っていて安心した。

本編は古代進の航海日誌という形をとって進められている。「航海日誌」なのでヤマトでの出来事がすべて具体的な日付をもって語られている。これは当然後から加えられたモノなので、TV版に当てはめて観るのも面白そうだ。ストーリーはヤマトの出発前日の夜、古代のモノローグから始まり、テレビの第1話を回想にするなどラジオドラマ用に構成を変えている。映画版ではカットされた相原の心の病のエピソードがあったりデスラーとスターシャのホットラインの会話があったりでなかなかにファン心理を考えた構成になっている。
中でも面白かったのは、古代が艦長代理を命ぜられ有頂天になるところだ。これはTVでもなかったハズだが、古代は島と仲良く談笑する雪を用もないのに「こっちへ来い」と呼びつけるんである。島が「今は俺と話してる」と拒否すると「俺は艦長代理だ。命令だ」などと言って雪を自分の方へ来させようとする。職権乱用も甚だしいのだが18歳らしくてカワイイと言えば言えなくもない。オトナな島くんは「人は肩書きについてゆくんじゃない。その人間を信頼するからついてゆくものだ」なんてことを言って諭すのだが、古代がそんなことを聞き入れるわけもなく案の定ケンカになるのだ。
まあ、こんなエピソードもありつつもなかなかに楽しめるドラマであった。
ただ、駆け足でストーリーを進めざるを得ず、心理描写も含め説明が多くナレーターが大活躍だった。そのナレーターは先だって亡くなられた広川太一郎さんが務められていて、古代守のセリフとナレーションが立て続けなシーンもありさぞかし大変だったことが偲ばれる。
最後に出たがりPのN崎氏がコメントを読むのだが、これがなかなかの美声。コメント内容もいいことを言ってるのだが、その後の彼を知る者には・・・ムニャムニャ。
急きょ松本零士センセイもスタジオに来る(呼ばれたのか、自ら出しゃばったのかそういう下りは残っておらず不明)のですが、最初に読み上げられたスタッフの中に自分の名前がないことに憤慨しどおしで面白かった。「アンタ、文句言いにきたのかよ!?」ってみんな思ったに違いない。N崎Pとの確執はこの頃から??
声優さんへのインタビューなどもところどころあったのだが、それらは一部のみしか入っていなかった。本編以外はどうでもいいと思ってたのかな、当時の自分は。
本編でトチりまくった麻上洋子さんのインタビューがあったはずだが、ほとんど残っていなかったのが残念。

当時中1の私はカセットを買いラジカセにセットし、布団に潜り込んでこの放送を聴いた。
幸いにしてラジカセだけは自分専用のを買ってもらっていたので誰に遠慮することなく聴き、録音もできたのだ。
あのときのワクワク感は今でも憶えている。いや「ドキドキ」の方が近いか。
当時の自分はまだ、ラジオの深夜放送というものを聴く習慣はなく深夜1時(から放送終了の3時)まで起きていることなどまずなかった。
この「ラジオドラマ宇宙戦艦ヤマト」で、私は少しオトナの世界へ足を踏み入れた気がしていたのだ。

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